川上さんは文科省で委員を務めてらっしゃいますが,本日の研究集会のような移動する子どもの言語教育・母語/継承後教育・アイデンティティ形成の議論や研究成果は,政策にどのように活かされている,または,活かされる傾向にあるのでしょうか。
日本で増加している外国人児童(ブラジル,ペルー,中国,フィリピン等から移動してきた者)への言語政策と,研究や理論の日本での現状について教えていただけましたら幸いです。
これまでの年少者日本語教育の研究成果の一部は,文部科学省が昨2010年5月に発表した「定住外国人の子どもの教育等に関する基本方針」に反映されていると思います。また,文部科学省は,現在,外国人児童生徒の受け入れに関して,学校や教員向けのガイドラインを作成しています。これも,その成果の反映と言えるかもしれません。
しかし,そのような政策立案を担当する側に専門家がいるわけではないので,われわれが考えていることがすべて政策に反映しているかと言えば,必ずしもそうではないと思います。だからこそ,今後もわれわれが連帯し,発信しつづけることは必要かと思います。ぜひ連携しましょう。
具体的な連携の実践例としては,私どもの早稲田大学大学院日本語教育研究科が協定を結び展開している三重県鈴鹿市の例や,東京都目黒区の例があります。
「移動する子ども」のアイデンティティ形成の問題は,ヨーロッパでも同じ問題を抱えており,研究もされているかと思います。実際にヨーロッパ(そのほかの世界含む)と比較して,日本に固有な問題はあるのでしょうか。
何を「日本に固有の問題」と捉えるかによっても,答が変わると思いますが,欧州で生活している日系の子どもたちの様子を見て思うのは,日本では外国籍の方が日本国籍をとると,ほとんどことばの問題が取り上げられなくなる点はその例と言えるかもしれません。欧州で私が訪問した国々では,国籍と異なる次元で,複言語,複文化のことが話題になる点があり,印象的でした。
移動主体のみが学ぶのではなく,移動元・移動先の人々も学ぶ必要があると思いますが,移動主体にとっての学びあう他者とは誰でしょうか。
子どもも大人も含めた,すべての人です。このご質問の「移動元・移動先の人々」という表現や発想からわかりますように,「移動する子ども」を実体概念と考えると,「移動しない人」vs「移動する人」となって,その発想から抜けられなくなります。そうなると,議論を発展させられなくなると,私は思います。欧州の「移動」に関する多くの議論が「社会統合」に収斂していくのは,まさにこの発想から抜けられないためだと思います。それへの問題提起が,今回の予稿集にある私のコメントの趣旨です。
「移動する子ども」CCBがもつ特徴として(1)空間的に移動する,(2)言語間を移動する,(3)言語教育カテゴリー間を移動する,とあげられましたが,これら3つは“子ども”のみならず,あらゆる人間に該当すると思います。年齢的に特定すべきなのでしょうか。
まず,「移動する子ども」とは分析概念であり,実体概念ではありません。予稿集で述べているように,この概念の中心は「幼少期より複数言語環境で成長した経験とその経験についての意識」です。誤解を恐れず言えば,「移動する子ども」は「生きている子ども」ではありません。重要なポイントは,幼少期からの「経験」と「意識」です。つまり,子どもが成長する段階での「経験」と「意識」,そしてその意味づけは,大人になってからも引きずるものです。それゆえ「移動する子ども」という分析概念は,どの年代の人にも通じるものです。したがって,年齢的に特定すべきことではなく,これから生きる人間の特性を分析することに有効に働くと,私は考えています。2050年になれば,この「経験」と「意識」を実感する人が社会のマジョリティになると,私は確信しています。そのときの社会をどう作るかと考えるとき,現在の既存の枠組みや概念では対応できないというのが,私の主張です。