外国語を「学習」するのは,自分を語るためにすることでしょうか? もしそうだとすると,使用する予定がない外国語は「学習」する意味がないのでしょうか。
私の意図がうまくお伝えできなかったのでしょうか。自分について書くことは,一つの可能な内省的アプローチではありますが,それが唯一というわけではなく,他にも複数のアプローチが存在しています。講演の時,私はとりわけ,受け入れ国の言語を学び,その能力を発達させる国際学生の,受け入れ先の文脈への組み込みのあり方に焦点をあわせました。そして私は,2つの可能な探索的アプローチを提案しました。
私が提案したこういったアプローチは,したがって,唯一のものではないばかりではなく,それそのものが目的というわけでもありません。こういったアプローチはそれ自体が目的なのではなく,脱構築―再構築と,そして脱中心化の動きの中で,自らを言語の中で/言語とともに再構築するための手段なのです(その反対ではありません)。その言語が将来において使用されようがされまいが,それは問題の本質ではありません。問題の本質にあるのは,自らが学ぶ言語の,自らの変容における役割です。様々なレベルでの熟考と意識化というこの作業無しには,学習が侵害され,意味を欠いたものになってしまう恐れがあるということになるでしょう。
「移動するアイデンティティ」を持つ個人に対する問題について,学生に対する対応を紹介していただいたのですが,そのほか国外移住者,定住者に対して,どの様な対応を取っているのでしょうか? 学生より多く移動しているので,より大きな問題となるような感じがします。
私の講演は,実際,受け入れ国の言語を学び,その能力を発達させる国際学生の外国での文脈への組み込みのあり方に,焦点をあわせていました。それは研究集会の問題意識として発表されたテーマ ― 少なくとも私がテーマとして理解したもの ― にあわせたものでした。もちろん私は,移民や移動するあらゆる人々についての研究を行なっています(例:AGR et Rachédi,2009)。たとえば,企業や国際組織における,国外移住者あるいは「高い資格を持った移民 « migrants hautement qualifiés »」について(例.Yanaprasart,2002,2005;Pia Stalder,2010:彼等は博士課程の時に私が指導しました)の研究もしましたし,質問者の方が言及されたような人々についての研究も行いました。たとえば経済的な理由や気候変動などにより移動を余儀なくされた,あまり高い資格を持たない人々…そして政治的理由による難民や国外亡命者などの研究です。彼等は社会的にも経済的にも,とても多様なカテゴリに入ることになるでしょう ― そういった多様な人々の研究も行なっています。もちろんそれは重要な問題であり,学生の国際的な移動と共通点を持つ一方で,そこには特定の人生経路と賭けが浮かび上がってきます。そして言語に関する特定の需要や,社会的な,あるいは社会/職業的な組み込みに関する需要を生み出すことになります。そこで,そういった特定の需要に適合した,特定の教育学的な答が必要となります。フランスではこういった人々についての大変興味深い思考や彼等に対する教育的アプローチが姿を現しつつあります(Adami,2010;Auger,2010;Brétegnier,2011)。
しかしその一方で,私達は研究において,受け入れ社会の国家によって移動する多様な人々に割り当てられた,公的なカテゴリー(法的なもの,地位的なもの)を再生産することになってはなりません。いま,私達は,移民よりも,移動について,頻繁に論じるようになっています。移動の概念を専門とする研究する者達は皆,私達は複合的で多極的な(多極的とは,二極的=ある国/他の国,と同義ではありません)経路と,状況の変化や,それにともなう地位の変化によって変わっていく,一つの家庭/一個人の内なる第一/第二/第三の……移動と関わりを持つのだということを明らかなものとしています。(AGR et Murphy-Lejeune,2008:version française,2011:version anglaise)このような新しい複合性は,ゆえに,概念という意味でも方法論という意味でも,とても注意深く探求していくべきものです。それは,外国人を言語によって統合していく時もしかり(私はこの言葉が好きじゃありませんが!)ですが,むしろ,統合ではなく,ひとつの,あるいは複数の言語による社会的な組み込みと呼びましょう。私達がいま,言語的な賭けを含む問題性の只中にいるのは明らかですが,それは同時に,そういった,単に言語的な賭けをはるかに超えていくものでもあるのです。
移動の(そして移民の)教育学は,いまだ自らを探し,自らを構築しつつある状態です。まだやらなければならないことはたくさんあります。それでも,進まなければなりません。というのも,そこに賭けられているものは,移民のみならず政治的・社会的・経済的な意味でのつながり,そしてアイデンティティ的なつながりにおいても,巨大な意味を持つものだからです。人々が溶け込んでいくことは,他者のバランスに影響します。その逆もしかりです。
「外国語だからこそ語れる」というのはなぜでしょうか。
もちろんすべての話者がそうだというわけではありません。自分自身について,そして人生や言語についての経験を語るときに,第一言語を好む人々もいます。しかし驚くべきことに,私が(ラウンドテーブルで:訳者注)言及したケースにおいて,私の学生は ― 未来の言語教師であったり,フランス語を学業の言語として選んだ者であったりするわけですが,実のところ,大多数が外国語を ― 職業として選んだこの言語,あるいは学ぶために選んだこの言語を,自らを表現とするための言語として選びます。外国語の欲望(例.Veshi in AGR et Rachédi,2009)を持つ移民の大人の学生であっても,それは同じです。
私達が話し,書く外国語(それは頻繁に,言葉を探しながら―したがって選びながらのもになります)は,劇場での変装のような効果を持って働きます。私達は覆面をかぶせられた状態で前に進み,ですから私達は何でも言うことができます。嘘をつくことさえもできるのです。というのもそこで前に進む人は,真実の自分というよりも,親密ではなく,はじめの段階での就学や帰属,社会階級,喜びや傷と結びついてはいない言語を話す他者だからです。ですから外国語は新たな場所を提供することができます。そこは新たな表現の場ですが,同時に矛盾や禁忌,禁止や慄きが現れる場でもあり,自らを再発明する場でもあり,自由の一つの形なのです!
Tweet