会場からいただいたコメントとパネリストからの回答 >

森美智代
「自己欺瞞の物語にいかに抗うことができるか」

コメント

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自己欺瞞の物語がよく行われてしまう,と言われていましたが,その子どもが語るものを「ギマン」としてしまうのは乱暴ではないでしょうか。例えば,虐待を愛情として捉えるという自己の語りであっても,それは自己にとっての事実であるかもしれないし,そもそも自己が物語ることはすべて,主観的な事実であるといえるのではないでしょうか。ですから,「抗う」ことをすすめるような教育には少し疑問を感じました。

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予稿集,p.23,l.3の,子どもたちが個々の生活で培った「言語観」について,具体的に子どもたちはどのような言語観を持っているのかご紹介していただけますか。そしてこの「言語観」というものは日本語に対するものでしょうか,それとも第二言語に対してでしょうか,もしくは両方ということでしょうか。また,そこで言う「子どもたち」とは,森さんが授業を担当されている高等教育の学生を指しますか。

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欺瞞と戦う際,それがロフタス的な偽記憶の生成に陥る可能性を,どのようにお考えでしょうか。何かについてのある語りを欺瞞とした途端,他方に欺瞞ではない真なる語りが自動的に想定されてしまう,その瞬間,その何かは真なる語りによって実体化され事実として浮かび上がる。こうして半ば自動的に次々と固定化した事実が生まれ,ロフタスなら変な裁判に,ヨーロッパなら道徳の膠着に,移動する者なら異人に,と至る。

この真正な実体の自動生成過程を避けるには,ゴアール氏の発表のような周到なプログラムが思想としても装置としてもめざされようけれど,わざわざその只中にまず飛び込む対欺瞞作戦では,どんな防御策がありうるでしょうか。常に閉じない異界の対話者が乱入するとかによるかく乱が用意されているとか?

回答 ― 会場からのコメントを受けて

私は,私の勤務する短期大学において,人生物語・自分誌を書く,語るといった活動を中心に位置づけて教育活動を構想し,実施してきてきました。したがって,私が「子どもたち」と述べる際,より厳密には,学生あるいは高等教育における学習者と限定した方が確かであると言えるかもしれません。しかし,学生となった彼女/彼らの現在が,これまでの幼・小・中・高等学校におけることばの学びの結果であるとして捉え直したとき,「子どもたち」をもう少し広げて捉えることも可能になると思います。

また,私は国語教育(母語教育)を専門分野として学んできたことから,私がお話しをする際に想定していたのは母語教育における文脈です。したがって,子どもたちの「言語観」を(再)構築したいという私の考えを,第二言語教育にまで広げることは,厳密さに欠けると言えるかもしれません。しかし,先ほどと同様に,もう少し広げて考えることもできるように思っています。

今回,私は人生物語が自己欺瞞の物語を生成し,それが唯一の真実のようにして固持されてしまう危険性を指摘しました。また,そうした語りの場の力に,いかに圧されることなく出来事を分け持つことができるのか,という問題提起をしたつもりです。子どもたちの語る物語を,ウソだと糾弾したいのではなく,ウソがどうか以前に,それ(欺瞞の物語に巻き込まれること)が当人にとって「本当に」到達したかったことなのかどうかを問題にしたいのです。分かりあえないはずの他者に,分かったフリをされることが「本当」に求めていたことなのかどうか。分からないことは分からない,しかし,その分からなさが分かっていく過程で,私たちは他者と共に,何かを築いていっている,その一部を「居場所」と呼んでよいように思っています。

人生物語を語る権利が子どもたちにはあると私も思います。むしろ,それをより徹底するために,当人さえも巻き込まれてしまう欺瞞の物語に共に抗うための他者の存在が重要になると私は考えています。抗うというのは反抗というより,抵抗です。何とかあがきたいのです。唯一つの確固たる物語を強めるための人生物語であってはならないと思うのです。欺瞞の物語に抗いながら,共に,ある一つの物語を形づくっていく。その物語が真実かどうかがとは別に,ある一つの物語を形づくるのだと思います。ことばの教育を考える私は,そうした力を育てることを追究していかねばならないと考えています。そしてそのためには,人生物語の語りを段階的に見ていく必要があるし,周到な準備が必要であると思っています。

複数の自己が存在し得ることが承認されるのと同様に,人生物語も複数存在することが承認されてよいと思います。それらが承認される社会集団をつくっていくことができれば,そこがいちばん居心地の良い場となるであろうと私は考えています。唯一の依存できる場があるよりも,複数が承認されるならその方がずっといい,と私は思います。だからこそ,私は,唯一のように見える欺瞞の物語に抗いたいのです。

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