会場からいただいたコメントとパネリストからの回答 >

細川英雄
「発見アプローチは何をめざすのか」

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趣旨説明には「ことばは人をつくり,文化をつくり,社会をつくります。」とある。なるほど文化も社会も相互的なものだから,対話両者(三者以上もあるが)のアイデンティティを背景にして,それぞれの言葉(語彙・単語)のやりとりの意味合いが「豊か」になるのだろう。しかし,そうした豊かな言葉の学びは,現在の学校で進められている現状(一方的な教え込み,教えるだけ)では難しい。つまり,この研究集会は言語教育だけの問題ではなく,「教育」そのものの見直しが必要な問題を提起している。ただし,その「見直された教育」も,言語を手段として進められるのだから,「言語」そのものの捉え方も見直す必要がある(そこには第一言語/第二言語,さらには読み書きできないその他の言語も含まれよう)。つまり「言語」と「教育」両方の見直しが必要だろう。

回答

はい,おっしゃるとおりだと思います。そのために,具体的な言語教育のコンセプトを考えていかなければならないというのがこの研究集会のメッセージです。質問の方はこのメッセージを受けて,どのような言語教育を構想されますか。

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一方では,他者がいるからこそ自己を定めることができる。他方,他者は脅威である。この両者の関係をどう捉えればよいか。また「ことばの学習」は,この関係の中でどう捉えればよいのか?

回答

他者はなくてはならないものであると同時に,脅威であるということですね。はい,おっしゃるとおりだと思います。ですから,そのアンビバレントな存在としての他者をどのように引き受け,どのようにかかわっていくかを考えることこそが言語教育に問われているのだと思います。

これは,言語教育のみならず,すべての教育,つまり人間形成に不可欠な視点です。ですから,言語教育とは何かを考えなければならないし,その場合の言語と何かということも重要な課題です。そのひとつの視点として,アイデンティティ形成を提案しました。「どう捉えればよいのか?」というご質問に正解があるわけではないと思います。むしろ正解をめざすのではなく,ともに考えつつ議論するというプロセスを作るということだと思います。

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指摘された,大学での自分を語らない「客観的な」アカデミックな文化を自明のものとする前提は,むしろ最近崩れつつあるのではないでしょうか。日本の大学での初年次教育やキャリアデザイン教育の文脈で,かなり積極的に「人生物語」(「本当にやりたいことは何なの?」)を語ることが強いられているように思われます(最終的にはエントリー・シートというかたちで)。それにはプラスの面もマイナスの面もあるにせよ。

回答

そうした一つの傾向は,私も感じています。しかし,それは何のためなのかという議論は必ずしも起きていないのではないでしょうか。一方で,学術的な文章の書き方というような指導があらゆるところで幅を利かせようとしています。こうした現象は,明らかに「アカデミックな文化を自明のものとする前提」ではないでしょうか。

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以前,留学生に,自分より日本語レベルが低い日本語学習者に向けたテキストを書くように指示した授業研究を発表したところ,オーディエンスから日本語の向上を目指すうえで意味がないのでは?と言われました。言語教育において果たして無意味なのか,今もわからずにいます。そこで伺いますが,言語教育において据える他者性において,その「他者」がどのような相手であるかを常に特定してお考えですか。

回答

言語学習者は,それまでの学習経験によっていわば支配されています。日本語向上を目的化し,それを至上の学習だと信じ込ませてきた日本語教育の責任は大きいですね。意味があるかどうかは,学習者自身が決めることであると同時に,質問者ご自身の立場はどうなのでしょうか。「わかりません」では次の展望が拓かれないように思います。この場合の他者は,本当にさまざまで,その社会やコミュニティあるいは場面等で変容し続けるものだと考えます。それぞれの主体がそのときそのときで感じる他者へ向けて,私たちは何らかの発信をめざすのではないでしょうか。

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言語学習における他者は,学習者にとっては教師と仲間です。自分史を語るような教室活動の際,教師の役割は学習者が語る〈環境〉を作ることだと細川さんは指摘しましたが,私はもう一つあると思います。その学習者が〈自分〉を語ることは特別なことです。それは決して語〈らせる〉というという使役形では実現できないことで,語り〈たい〉と思えなければなりません。そのために,他者が必要です。そこで他者としての教師の役割として,〈自分を〉開くことを欲せさせることもあるのではないでしょうか。

回答

> その学習者が〈自分〉を語ることは特別なことです。
私はそのようには思いません。すべての個人は,常に自分を語ることから始まると考えるからです。ただし,この場合の「自分を語る」とは,あてもなく自分の個人的な話をするという意味ではありません。自分の中に内在するテーマを他者に向けて発信するという行為を意識的あるいは無意識的にすべての個人は行っていると考えるのです。

> 他者としての教師の役割として,〈自分を〉開くことを欲せさせること
ですから,このことが過去・現在・未来を通じ,かつ日常から非日常まで,個人の打ち明け話としてではなく,テーマのある議論として構築する環境を作るのが教師の役割であると考えるのです。

なお「自分史」という設定は,私が行っているわけではありません。このクラスの設定が,上記のテーマ議論に耐えられるものであるかどうかは,教室活動の内実に入ってみなければわからないと思います。

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ことばはそもそも個人の所有物としては存在しません。これをことばの根源的な他者性(カッシーラー)と呼びましょう(他者と他者性は明確に区別して考えるべき事柄だと思います)。ただ,「自分のことばで言いなさい」とも言います。自分のことばって何だろうと思います。自分だけの語彙も文法も存在しません。けれども「自分のことば」は存在するのです。ここには,ことばが語彙と文法を明らかに超えた次元で存在する証があります。自分のことばは,根源的な他者性を引き受けながら,模索しなければなりません。その自分のことばとは語彙や文法ではなく,〈スタイル〉であるというのが私の考えです。私たちは,ことばの根源的な他者性を引き受けながらもそれを乗り越えて自分のことば〈スタイル〉を探す,いや探さざるを得ない。ことばの根源的な他者性が,自分のことば〈スタイル〉にたどりついたとき,確かなアイデンティティが確立するように思います。

回答

おっしゃることには基本的に賛同します。問題は,では,そうした〈スタイル〉を探すために,どのような教育実践が必要なのか,ということです。これが私の唱える「実践研究」です。こうした議論を,少なくとも日本語教育の文脈ではほとんど行われてこなかったということがこの分野の不幸なのです。質問者ご自身が実施する「実践研究」をぜひご提示いただきたいと思います。ぜひ新しい議論をともに始めましょう。

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