八ヶ岳アカデメイア――出版・執筆活動:解説

「総合活動型日本語教育」とは何か――よくある疑問とのやりとり (1)

1. ことばは道具か,自己変容との関係

Q.

日本語教育は,成人に対する第2言語教育であり,その対象はすでに自己形成を終えた大人である。したがって,そうした大人を対象とした教育においては,ことばを道具として使えるよう教育することが目的なのではないか。

“学習者の自己変容”などを問題にするのは母語教育で行われるべきことで,日本語教育の目的と異なるのではないか。

A.

ここではことばに対する基本的な考え方の違いがあります。

総合では,ことばはコミュニケーションの道具であると同時に,人間の思考そのものであると考えます。ことばを使って何かを表現するということは,そのことばによって考えることであり,この両者の関係を明確に区分することは不可能という立場をとります。質問のような立場をとると,母語教育は思考の教育,第2言語教育はコミュニケーション方法の教育,ということになりますが,このように両者を区別して扱うこと自体が言語活動の原理に矛盾すると考えるわけです。

従来の日本語教育では疑問のような考え方が一般的であったかもしれません。構造主義に代表されるような,言語を確固とした構造として捉え,その構造の仕組みを理解することが言語学習であるとする立場に立てば,たしかにそういうことになると思われますが,ことばの活動というのは,そうした構造を持つことばを,どのように・何のために運用していくかという人間の思考と分かちがたい関係にあるというのが総合の立場です。母語は「こころ」,第2言語は「かたち」という区別を超えて,どちらも「こころ」と「かたち」を問題にすることが必要であると考えます。

たとえば,ナショナル・アイデンティティやステレオタイプは成人になるにつれて強固なものになる現象ですが,これについてどのように考えていくかが,日本語教育の重要な課題であることは言うまでもないでしょう。したがって,第2言語として日本語教育を受ける成人の学習者にも「自己変容」のチャンスは十分にあり得るわけです。

2. 学習者のニーズ

Q.

アジア系,とくに中国や韓国からの留学生には,一般的な知識を教えてもらいたいと考えるケースが多い。アンケート調査などを行っても,たくさんの情報が与えられる授業に対して評価が高い。こうした学習者のニーズと総合のクラスの目的・内容との関係で矛盾が生じないか。

A.

さまざまな学習者のニーズに関しては,問題を二つに分けて考えることができます。

一つは,担当者個人の教育観とその実現の問題として,もう一つは組織のカリキュラムの問題としてです。第一の担当者個人の教育観とその実現の問題ですが,まず,担当者自身がどのような教育観を持っているかを明確にすべきです。

学習者のニーズがあってそれに合わせて教育方法が存在するならば,担当者の教育観などどうでもいいことになります。たとえば,日本語を学ぶのは日本でお金を稼ぐためなのだから,日本語を使ってお金を稼ぐ手っ取り早い方法を教えてほしいというニーズに日本語教師はどのように答えますか。試験に受かるためというニーズだとしたら,自分の教育観はすべて放棄して○×に答えられる能力だけを養成することにつとめますか。

問題は,担当者自身はどのような教育観を持ち,それを実現するためにどのような実践をしようとしているか,ということなのです。

学習者のニーズは,そういった明確な教育観に基づいた学習プロセスの中で,変化するものではないでしょうか。学習者のニーズは,それまで受けてきた教育の範囲内で生まれてくるものでしかありません。この意味では,学習者にとって学びたいこととは,それまでの経験から学べると学習者が判断したものにすぎないでしょう。だから,担当者が固有の教育観をもって授業を行うなら,学習者が第2言語教育から学べることの範囲は広がっていき,そこで新たなニーズが育まれるということになります。

もし担当者が固有の教育観を持たなければ,何でもいいということになるわけですから,まさにティーチングマシーンとなるしかないでしょう。

学習者のことを中心に,学習者の立場にたって,という日本語教師は大勢いますが,問題なのは担当者自身の立場です。担当者がその言語観,教育観を明確に自覚するところからこの問題ははじまると言えるでしょう。読書にたとえるとしたら,ドストエフスキーを読ませるか,漫画・週刊誌を読ませるか,どちらもそれなりの意義があるでしょうが,担当者が自分のクラスをどのように設置するかはまさに担当者自身の教育観によるわけです。

しかし,所属する組織として,たとえば試験を受けるための制度があり,そのためのカリキュラムになっている,だから,そこに属す教師としては,組織の制度に従うしかないという反論(?)が出てくるでしょう。

これが第2の組織でのカリキュラムの問題です。

試験に受かるための学習が一番よいと考えている教師ならばともかく,そういうことに疑問をもつ場合は,すくなくともカリキュラム上で,いくつかの選択の可能性をつくっていくということです。その上で,実践として成果を示していくことが必要です。

カリキュラム上の選択の可能性があれば,学習者は自らのニーズにしたがって科目を選択するようになり,組織としてのあり方もおのずと明らかになってきます。もちろん,だから常にカリキュラムが理想的な方向に向かうとは断言できません。カリキュラムとは常に流動的なもの,個人の教育観と社会制度の間を揺れ動く船のようなものだと私は考えています。

その船の方向を定めるには,実際に教室を担当する者が情報を共有しつつ合議によって物事を決定していくしかありません。

3. 評価はどうするか

Q1. 絶対か,相対か

評価はどうするか。数値化による客観的な基準が出せないと,学校制度の枠組みの中では機能しにくいのではないか。

A1.

総合ではまずはじめに,評価の枠組みを明確にします。

つまり,半年の学習を通して何をクリアすべきかを最初の段階で学習者と担当者が共有するわけです。もちろん,このための枠組みは担当者が作成します。たとえば,レポート集をつくるという目標のクラスの場合,「かたち」として次のような目標を設定します。

  1. レポートを締め切りまでに提出すること(〆切りをすぎた場合は受けつけない)。
  2. 完成稿として提出すること(結論はあとから,というようなものは受けつけない)。
  3. 規定の分量に達していること(はじめに目標の分量を示し,これを超えることを約束する)。
  4. レポート提出後の相互評価に出席すること(レポートの出しっぱなしは許さない)。

「かたち」として,以上の4項目をクリアすれば,形式として「優」(80点)とします。

このように,まずはじめに評価の枠組みを決めておき,このハードルを越えるために皆でがんばろうという目標を立てます。その結果として,80%は「優」(80点)となり,あとは内容面との調整によって,前後10%程度に分かれます。(内容面に関しては相互自己評価表を参照)

これでは差がつかないという反論も出るかもしれませんが,こういうクラスがいくつかあれば,それだけで,十分差はつくでしょうし,考えてみれば何のために差をつけるのかということに担当者はもっと自覚的になる必要があります。このクラスはインターアクションのための一種の共同体を形成するわけですから,本来差をつけるためのクラスではないのです。したがって評価の方法としては,参加者それぞれの能力がそのまま評価される絶対評価の方法をとることになります。これに対して,クラス内での評価の割合が決定されている,いわゆる相対評価が制度化されている組織の場合は,なぜ絶対評価ではないのかということに現場として問題にしていくことになるでしょう。

Q2. 学習の効果はどう測るのか

こうした実践の精神的な意義は認めるが,どのような効果があったのかわかりにくい。学習の効果はどのようにして測るのか。

A2.

これは非常にむずかしい問題です。

従来型の教育で,一定の与えられた知識をどれだけ覚えたかというのは数値化しやすいけれども,それが効果があったかを測る本来の意味でのバロメーターになっているとは思えません。たとえば,単語を数百おぼえ,ラストで満点をとったが,実際の場面ではまったく使えず,1ヶ月たったら皆忘れたというようなことはしばしば指摘されることです。

この実践ではそうした一時的な記憶や数値化できる事柄を問題にしているのではありません。実際の場面で,ことばを適切に運用するための力を問題にしています。ここでいう「適切な運用」とは,実際のコミュニケーションの中で,その場の状況を判断しつつ,自分の考えをことばにして,相手を説得できるということです。

したがって,身につけた効果や能力を見るには,その学習プロセスと最終成果を公にするしか方法がありません。学習プロセスそのものをすべて公開するには限度があるので,最終的には成果を公開することが重要になりません。つまり,成果を公開することによって,さまざまな他者から評価を受けるのです。成果が学習者の目的達成のプロセスをはっきりと伝えている,あるいは学習者の考えていることがよくわかる,と評価されれば,この実践の効果があったと考えるわけです。だからその成果物は,その学習者の主張として広く他者に対して説得力をもつものでなければなりません。たとえばどんなに日本語らしい日本語で書かれていたとしても,独善的なナショナル・アイデンティティに陥っていたり,安易なステレオタイプ化したものであれば,当然批判されるべきものでしょう。

従来から,日本語教育では,定められた期間での効果的な学習というようなことが唱い文句になってはきましたが,言語学習の効果とは,文型,語彙,漢字をいくつ覚えたということでは測れないものです。むしろ,その習得した文型,語彙,漢字などで,相手の言うことをどのように理解し,自分の「考えていること」をどのように表現できるようになったかが問題でしょう。構造的な正確さや定型の流暢さだけではなく,相手をどのように説得し納得させることができるかというものでなければならないはずです。

こうした観点を無視して,言語教育の効果などを軽々しく言うことはできないのです。

4. ツクラレタ議論なのでは

Q.

日本語学習の場での議論はいわばツクラレタ「ニセモノ」の議論なのではないか,だから,いわゆるタスクと大差がないのではないか?

A.

「総合」での議論は,ツクラレタものでもニセモノでもありません。学習者たちが本気になっている様子は,ビデオからでもよくわかります。

外国人の日本語学習だから,いつもツクラレテイルと考えるのは,初めにそういう思い込みがあるのでは?

大切なことは,自分の「考えていること」を本気で議論できる場を担当者がきちんと用意してやるということです。ツクラレタ場という感覚を持つ背景には,担当者がこんなことにしてどんな意味があるんだろうという迷いがあるときに起こるのではないかと思いますが,いかが?

5. 「情報を得る道具としての日本語」も重要なのでは?

Q.

たとえば「お好み焼きを作ろう」という活動は,もし初級者を対象としたならば,よい企画なのでは?「日本語を使って何かをする」というだけでも充分勉強になるのでは?

「考えるための日本語」だけでなく,「情報を得る道具としての日本語」も重要なのでは?

A.

私の立場は,「考えるための日本語」と「情報を得る道具としての日本語」とを分けて考えないところにあります。

初級者だから,考えなくていい,情報だけでいいとは思いません。だから,「お好み焼き」の活動自体が悪いというわけではなく,そういう活動をする場合に,担当者はこのことによって何をめざすのか,ということを明確に自覚しつつ活動のプログラムを立てる必要があるということです。

ただ単に,「おもしろいから」とか「楽しいから」というのでは問題があるということです。

これは年少者を対象とした「総合的な学習」にも言えることですが,その学習活動は,何を目的とするかということをきちんと把握すべきだというのが私の意見です。

6. 添削・「自分の意見をもつ」

Q.

高校で英語を教えていますが,要旨や感想を書かせるとき外言レベルで意味が通らないので,添削せざるをえませんし,内言まで立ち入ろうとすれば時間がまったく足りません。

また,「自分の意見をもつ」という方法は,学生の受けが悪く,絶望的です。

A.

意味が通らなかったら,すぐに添削するのではなく,これはどういう意味?というように問いただしていくわけです。そうすれば,学習者は必ずそれについて説明しようとします。充分時間を与えて説明させれば必ず言いたいことはわかります。そこで,「じゃ,そのように書いたら?」と促してやればいいのです。

その時間がないというのは,結局,担当者の側がやるべきことを盛りだくさんに抱えていて(そういう幻想にとらわれていて),それを全部やらなければダメだと思い込んでいるからでしょう。たとえば,教科書の何ページから何ページまで,というように。

このように私が言うと,「そんなこと言ったって,学校には学校のカリキュラムがあり,私一人で教科を教えているわけではない」という答えが決まって返ってきます。

それはたしかにその通りなのですが,ここで一番大事なことは,「では,あなた自身はどのように考えることが一番いいと思っているのか」という問題なのです。もちろん教育環境や条件は重要な問題ですが,これを考えるのは「あなた」自身なのです。そして,問題を周りのせいにせず,自分の意見をきちんと持て,と生徒や学習者に常々言っているのは誰でしょうか。

もちろん,一朝一夕には,この問題は改善できません。しかし,「私」自身がどのような学習観・教育観を持つかということが一番重要なのであって,ある一つの考え方が出てきたときに,「ではそうすればいいの?」「今の環境ではできない…」と答えるだけでは,結局,「何も考えようとしない」生徒や学習者と同じことになるのでは? 担当者がそういう姿勢でいると,学習者も当然そうなるわけで,結局,学習者のそういう態度を形成しているのは,担当者の姿勢だということになりませんか。

7. イデオロギィの強制ではないか

Q.

「私」をくぐらせるという方法は結局,担当者のイデオロギィを学習者に強制することになりはしないか?

A.

「私」をくぐらせるという方法は,とくに私が考案したことではなく,昔から国語教育その他 の分野で行われてきたことです。文章を書く場合もしばしば「顔のある文章を書け」と言われるように,「私」を語るということは人それぞれが自分の固有性を認識し,他者と共生していく中で重要なことなのだと思います。最近では精神医学の分野でも改めてこうしたことが問題になっていると聞いています。

ここでの学習者および担当者の不安は,今までそうしたことに直面したことがないという不安です。つまり,今まで「私を語れ」と真正面から言われたことがなかったからです。

しかし,「私」がなかったら,この世で生きていくことも,他人のことを考えることもできないわけです。だからしっかり自分の考えをもって,と言われるわけで,そのことに対しては,おそらく何の反論もないでしょう。

つまり,自分の意見を持て,あなただったらどうするか,ということは,さまざまな問題に対して,自分で責任を持つということなのです。だから,「私をくぐらせて書け」という指導は,決してイデオロジックでもなければ,思想の強制でもないのです。

もしこうした活動にアレルギーを起こす人がいたとしたら,それはよほど自分の責任を回避してうまく立ち回ってきた人か,あるいは外野から文句ばかり言って自分の責任をとろうとしてこなかった人ではないでしょうか。

したがって,「私をくぐらせる」ということは,その「私」の中身を限定せよということではありません。むしろ,「私」をくぐらせることによって,いろいろな問題に自分の責任において正面から立ち向かう勇気をもて,ということなのです。

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