八ヶ岳アカデメイア――出版・執筆活動:解説
「総合活動型日本語教育」とは何か――よくある疑問とのやりとり (2)
1.教科書がなければ授業はできない。
はい,そうですね。授業にとって教科書は大切です。では,何のために教科書はあるのでしょうか。教室で学習者が学ぶのは教科書だけでしょうか。
また,決められた教科書を決められたように教えるだけの先生だったら,別にあなたが先生である必要はないかもしれませんね。
ご自分の今までの学習活動に照らして考えてみませんか。
2.教師の役割は,知識や指針を学習者に与え,示すことである。
はい,そうですね。教師は,学習者に知識や指針を与えます。
でも,それだけが教師の役割でしょうか。もしそれだけだったら,何かさびしくありませんか。そういう教育活動って,何かロボット化した機械のような感じがしませんか。
3.教師は教授者であり,研究者ではない。理論と実践は別である。ゆえに理論を実践すれば千差万別で,一つのマニュアルがなければ混乱してしまう。
はい,そうです。たしかに教師は研究者ではないでしょうね。ただ,それは,教育と研究をとても狭く限定して考えた場合のことのように思います。
教師一人ひとりは毎日の授業のためにいろいろな工夫をし,それを次の授業にも生かそうと考えています。そうした「考える」行為を「研究」と呼ぶことはできませんか。こう考えると,世界がずいぶん明るくなるように思いますが,いかがでしょうか。
その場合,「効率」や「効果」だけを求めて,一つのマニュアルだけで教育というものが行われるとしたら,とても悲しい現実となるような気がしますが,いかがでしょうか。
4.日本語がわからない学習者から,提案など出てくるはずがない。
たしかに,初級の学習者に勝手に話せというのは土台,無理な話ですね。この活動でもそんな無理なことをいきなりしようとは誰もしていませんよ。
ただ,お互いに共通のことばを持たない人間が相互の考えを交流しようとするとき何が必要だとお考えですか。そのとき,初級の学習者も決して未熟な物体ではなく,ものを考える個人だということです。
お互いに言いたいことがあるとき,そこでお互いの共通のことばを探り合おうとします,このことを考えるのが,コミュニケーションの基本であり,ことばの教育の原点だと僕は思います。また,このことは,戦前の日本語教育ですでに行われていました。
5.従来の教科書準拠型文型積み上げ式でも日本語が上手になる。
世界中にはいろいろなことばの学習者がいます。その多くは自然習得でしょう。家庭とか地域とかの環境の中で自然に習得する場合です。一方,学校という所では,世界的に訳読法がまだ一般的ですね。これは現在でも続いています。つまり,ことばを身につけるには,いろいろな方法があるということです。
言い換えれば,これが一番いい方法だというようなものは存在しないということです。ですから,文型積み上げがいいとか悪いとかいうことではなく,学習者一人一人に合った学び方があるということでしょうね。ですから,その学びとは何かを考え,そのための環境をどうつくるかということを考えるのが学校や教師の役割ではないでしょうか。
6.担当者に力量を求めすぎる。誰でもできるものでなければ困る。
そうなんです。私たちは常にコミュニケーションによって人間関係を構築しているわけですから,それと同じようなことが学習者との間にも成立することを願っているわけです。ですから,このコミュニケーションは誰にでもできるはずなんです。できなくなってしまう(と感じる)のはなぜなんでしょうね。
7.体系,カリキュラム,シラバス,授業の手順等「やり方」を見せて欲しい。
最近,活動型に関するいろいろな本も出るようになりましたから,それをごらんになるといいと思います。ただ,人間のコミュニケーション自体は,体系,カリキュラム,シラバス,授業の手順どおりに動くものではありませんね。もし,そのように決められた手順で人間のコミュニケーションが可能になるなら,それこそ,ロボットの世界になってしまいます。それはちょっとさびしくありませんか。
8.創設者の考えに全面的に従わなければ不安であり,危険だ。
「不安」というのは,やり方がわからないということでしょうか。「危険」というのは,そのやり方のわからない人が勝手にやったら,どうなるかわからないから「危険」だということでしょうか。人間のコミュニケーションっていつも「不安」で「危険」ですよね。なぜなら,先が見えないからです。でも,私たちの人生ってそういうものじゃありませんか。決められたことを決められたとおりに着々と実行するのは,とても賢い選択のようですけど,何か無味乾燥な気がします。
一度しかない人生ですから,自分にしかできないことに挑戦する人生を僕も選びたいと思います。
9.自律的に考えろと言うのは無責任だ。
私たち一人一人の学習観・教育観は本当に異なりますし,それは,人間観や人生観まで広がります。教育実践一つをとっても,その学習者への接し方・考え方は,一人一人の教師でそれぞれ異なると考えられます。したがって,誰もその教育観を統一することはできません。
しかし,ではなぜそのような教育観を持つのかということについては十分議論ができるはずです。ですから,誰かがどこかで決めたことに従うのではなくて,なぜ自分がそのような教育観を持つのかということを教師一人一人が自分の責任において明らかにしていく必要があると思います。
この社会では,人は一人一人自律し,そのうえで,ゆるやかな連帯を形成していくことが望ましいと僕は考えています。これが教育のおける民主主義でしょう。ことばの教育を考えることで,自分自身の民主主義について考えてみたいと僕はいつも思っています。