ディスカッション:グループ 5 (ファシリテーター:古賀)
ディスカッション 1
- ネット上で中国語を添削するという方法をとっているが,効率的に添削をするにはどうすればいいか,何かヒントを得られればと思って今日は参加してみた。自分自身で言語を獲得していくことはいいと思うが,限られた資源と経費では経営者の立場としては限界がある。
- 時間とコストと理念の問題というのは確かにある(以上,自己紹介の中で出た意見)
- 正しい作文と良い論文は一致しないと考えるようになった。文学的表現,間違いのない日本語で美しい作文でも,その人の思考力を表したものとは言えないものがある。思考を構築するための言語というのが必要なのではないかと思う。一方,アルバイトをしようと思っても,正しい日本語を話せないとレジに立たせないと言われる。
- 文法的な間違いのない文章を書いてもその人を表すような内容になっていない。では内容がよければいいかというと,一方では正しい日本語も求められる。添削をどう考えるのかということにもつながりそうだが。
- 社会の許容力も必要。中国では正確な中国語が使えないと社会的に認められない。そうすると,中国社会の中でやっていけるようにきちんとことばが使えるようにしていかなければならない。
- 中級を担当していて思うのが,ソツなく書けてはいても何か物足りない。知っている表現は間違いなく使えるが,それだけを使って,他の表現にチャレンジしようというところがない。他の表現をなぜするのか,やってみようということを考えて欲しい。
- 言語的正しさを押し付ける裏には,いい評価を受けることがいいことだという考えがある。日本人のようにというのは,同化的なものを無自覚に持っている。
- 社会に出たときに,自分が使っていることばがどう捉えられるかということを学習者に知らせておく必要はあると思う。
ディスカッション 2
- 国語教育の立場からはどうか。日本語教育も国語教育も根っこのところでは同じものがあるのではないかと思うが。
- 国語総合という時間で「書く」活動が年間30時間,「聞く・話す」活動が15時間あり,「書く」中に「推敲する」という活動がある。そこで他の人の作文を推敲するということをやってみた。作文能力の差の問題があったり,漢字や文法にばかり目を向ける生徒もいて,添削とは何かということをもう少し考えさせる必要があった。
- 添削は形の面ばかりだったのか。
- この表現はいいと思うというように,ほめるものもあった。
- 「総合」でレベル別をやめたという話があったが,古典のクラスでレベル別とレベル混成クラスをやってみたら,混成クラスのほうが互いに学びあい,モチベーションが上がってうまくいった。
- 「聞く・話す」という時間はどういうことをするのか。
- 考えていることをとりあえず出すということをやっている。
- 授業で話すということをすると,共感できる内容でそうだそうだと言ってだらだら話してしまう。そうではなく,きちんと対話する必要があるのではないかと考えている。
- 最近,自己開示ができるということが大切ではないかと考えている。
- 先ほど(休憩時間に)金子さんは初級を教えている中では書くというのは難しいという話をしていたが,どうか。
- 初級では本当に難しい。なかなかできないと思う。
- 初級でも同じではないかと思う。書くときに他者の目というのが大切なのではないか。それによって自分との対話が生まれる。読者を想定することが重要。何のために,だれのために書いているのかを意識する必要があると思う。
- 確かに自分の中での対話は必要。日本人で文章を書くときに音読みは漢字,そうでないものはひらがなで書くという人もいるが,日本語教師は習った漢字は使わなければならないと考える。知っているものは全部出すという考えになってしまっている。
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