八ヶ岳アカデメイア――出版・執筆活動:『ひととことば』

WEB版第2号:読者の皆様からいただいたご意見

飯田 睦美さんより

『論集 ひととことば』第2号を読ませていただきました。

実践記録を読ませていただくと,総合活動型日本語教育が意図するものが少しずつ見えてくるような気がいたしました。蛇抜優子さんの論文に,『「人間の普遍的な思考回路」の活性化』という言葉がありましたが,まさに「人間としていかに生きるか」を問う教育活動であることを痛感します。 そのような意味において,私がこれまで「子どもの自立支援」というテーマで考えてきたこととの重なりが大であることを再確認しました。

塩谷奈緒子さんや新井久容さんの論文からは,総合活動型言語教育のプロセスと手だてを具体的に学ばせていただきました。言語教育研究にはほとんど素人であった私には,自分の考えてきたことを言語化していただいたような感じで,大いに勉強になりました。 方法論に関わって,「何をテーマにさせるか」ということと「教師の支援のスタンス」が重要であることを認識しました。学ばせていただいたことを参考に,今後小学生対象にどう実践を展開していくかが私にとっての課題です。

日々小学生と接していて,子どもたちに「他者の思いをイメージする力」が欠如している,そんな感じを抱くことがよくあります。私は今3年生を担任しているのですが,数名の子どもの,「怒りや願望を暴力という形で表出」したり「言葉の強さで友達の考えをねじ伏せ自分の欲望を遂げようとする行為」に手をやいております。多くの学級の子どもたちは,そのような行為に脅かされ,日々混乱と怒濤の中で生活しています。そのために,クラス全体に,落ち着いて考えることが成立しにくい状況があるのです。

先日,印象的なできごとがありました。そうじ中の大げんかの後の話し合いで,子どもたちに「ほんとうに強い人とはどんな人か?」と聞いてみた時のことです。「私」はどう考えるのか,ひとりひとりに時間をかけて丁寧に聞いていきました。ゆっくりと待ちながら聞くことで,子どもが思考しているー自分のことばを探るー様子が手に取るように感じられました。普段発言をしたことのない友達が発したことばに,新鮮な輝きをみて驚くという場面もありました。意外にも教科学習がよくできる子(いわゆる優等生)は,「わからない」といち早く考えることを放棄してしまったことは,とても印象深かったです。

思考を促す活動をどれだけしているのでしょうか。教師自身も,「集団」の大きな力やうねりの中で,「個」に向き合うことを,ともするとないがしろにしてしまう,そんな状況に自分自身も身をおいていることを感じます。「他者の思いをイメージする力」も,学習と経験によって培われるのだと思います。そしてその力は,「自分がどう生きるのか」という問題と深く関わります。今,私の目の前の子どもが呈している状況をみると,これまでの教育はその力を十分に育ててきたのだろうかと,問いかける日々です。

細川さんが総合活動型日本語教育において提起なさっておられることは,私のような小学校の教育現場に関わる者にとっても大いに参考になります。ますますの研究の発展を御期待申し上げます。

山本冴里さんより

先週のメールマガジンで,「書く」ということについてのお話がありました。

「書く」ことはとても大切だと,常々感じてきました。メールマガジンは,自分にとっての「書く」を改めて考える機会になりました。

私にとって「書く」こととは「自分自身を探っていく」ことです。 「書く」ために記憶をたどり,段階を踏んで思考を繰り返し,何度も何度もことばを選びなおすこと―その過程すべてが「自分自身を探ること」になっていきます。 「書く」という行為は,私を考え込ませます。

細川さんが,りんごの例を使っていらっしゃったので,私もその例にならって,りんごで説明します。

「りんごについて書く」と決めたとします。

普段は「好きだから」だけで深く考えたりはしないけれど,「書く」となれば「好き」だけではすまされません。

「なぜ好きか」「りんごは私にとってどんなものか」「りんごと私の間には,今までにどんなことがあったのか」など考えなければならないことが沢山出てきます(多少大げさになりますが)「私とりんごの関係」を考えよう,と思えてきます。

そして,「私とりんごの関係」を探り文章化することは,同時に「私自身を―りんごによって引き出された「私自身のある部分」を―より深く把握し,他の人にも見てもらう」ということでもあります。

大学時代は,文芸専修という学科で小説を書いていました。卒業論文としても小説を提出しました。そんなわけで「書く」ということは,これまでもずっと大切なものでした。

ことばを選ぶときにはいつも,そのことばに対する自分の判断があります。意識的であるか否かにかかわらず,「ことば」は一つ一つ,自分の経験や感覚を通して出てくるんですよね。

ふと浮かんだことばや表現に触発されて考え込むことも多々あります。自分でも思いがけないことばが出てくることがあって,どうしてこんなことばを使おうとしたんだろう,と悩んだりもします。

そんな時はそのことばに関する記憶をたどり,思考しなければならなくなります。だから私にとって,「書く」ことは「自分自身を探っていくこと」になるのです。

ここまでは,私にとっての「書く(第一義的な)」を述べてきました。以下には,’「書く」が「日本語教育」においてどのような意義があるのか’というテーマでの私の意見です。

「日本語で書く」ことの「日本語教育」における意義は,1.「日本語力を伸ばす」ことであると同時に,2.「論理的な思考の訓練」であり,3.「他者(読み手・日本人,日本語を解する人)への理解を深める」ということでもあると考えています。

1. 「日本語力を伸ばす」
文法や語彙の面におけるものです。
2. 「論理的な思考の訓練」
母語で書く場合はどうしても,書き手である自分と読み手との‘無言の通じ合い’‘共有する背景や条件’に頼りがちになると思うんです。
しかし日本語で書くとなれば,書き手は程度の差こそあれ‘読み手は自分とは異なる価値観・背景を持っている’ということに意識的にならざるを得ません。
「わかったつもり」「典型」「イメージ」から抜け出すことが強く要求されます。イメージで語るよりも,段階的・論理的に考え,より説得力のある表現にすることが必要となるのです。だから,「書く」ことは(2)「論理的な思考の訓練」にもなります。
3. 「他者(読み手・日本人,日本語を解する人)への理解を深める」
文章が書きあがれば(またはある程度まとまったところで),書いたものを人に見せ,その内容について感想や意見を得ることも大切です。互いにボールを投げ合い,受け止めて思考して投げ返すことは,自分自身を探るとともに,読み手である他者の理解へとつながっていくことだと感じています。3. 「他者(読み手・日本人,日本語を解する人)への理解を深める」とは,以上のようなことです。

この3.の部分が「日本事情」に関わってくるのではないかと思っています。

皆様は「書く」ということをどのように捉えていらっしゃいますか。

追伸:「論集 ひととことば」執筆の皆様
先日,「ひととことば」の会で,『論集 ひととことば』第2号をいただきました。あの日の帰宅後,夜を徹して読んでしまいました。文章にこめられた熱気に震え,何度も読み返しました。今はもう,書きこみだらけになっています。深く考えるための‘きっかけ’を与えてもらったと感じています。