言語文化教育研究会では,2006年秋より,活動型実践研究をテーマに,月例の研究会を行ってきました。
コミュニカティブ・アプローチの登場,さらには,多文化共生社会への対応としての,文化リテラシーの育成のための日本語教育という,80年代から90年代,現在という流れの中で,従来の教科書中心のクラスとはべつに,活動型の実践が多く行われるようになっています。
しかし,活動型の実践報告が個別になされる一方で,活動型の理念とは,意義とは,その方法とは,という議論が体系的になされているとはいえない状況が続いています。
活動型の日本語教育を,一つの単発的な活動,アクティビティで終わらせず,日本語教育のひとつのあり方,方法として,カリキュラムの中に位置づけるためには,そのような議論を重ねていく必要があるのは言うまでもありません。そこで,言語文化教育研究会では,活動型の実践を研究,共有するために活動型日本語教育をテーマとして取り上げることにしました。主な研究内容は以下の通りです。
本研究会では,主に以上の4点を中心に,活動型日本語教育に関するテーマについて議論を重ねていきました。
今後,実践研究とは何か,なぜ日本語教育は実践研究でなければならないのか,どのようにしたら実践研究は実現できるのか等々の議論は,「実践研究フォーラム」(日本語教育学会)および「実践研究プラットフォーム」(当NPO提供日本語教育ユビキタス講座)に引き継がれます。
ここでは,理論を実践に応用するのではなく,むしろ理論は実践の中から立ち上がってくるものであることを提案する。教室を良くしたいということで日々の実践を見直す。この見直し活動が「研究」にあたると私は考える。「私はこんな教室を目指したい」という理念が最初からあったというよりも,むしろこの見直し活動をするなかで「自分が作りたかったのはこういう教室だ」という理念ともいうべきものが立ち現れ,明確になってきた。この「立ち現れてきたもの」は見直しと実践の繰り返しの中でさらに変容を遂げる。この変容のプロセスが私にとっての実践研究であり,結果的にいえば教師としての成長プロセスだともいえる。パネルでは,このプロセスを報告するとともに,実践研究はどうしたら深めていくことができるのかという点について私見を述べる。
実践と研究との連環を考えるために,私自身に関わる二つの事例を取り上げて述べます。
この事例では自分の実践に目を向けて,それをどうすれば改善できるかを真剣に考えて行動すれば,先行研究に目を向けたり仲間と話し合ったりすることになり,そこから研究と実践の連環ができてくるということを述べたいと思います。
この事例では,一つの実践を選ぶときの"複合的判断"を研究することが必要で,そのためには現場のデータに基づいて,判断のもとになる考え方と価値観について論じ合うことが必要だ,ということを述べます。
教師として優先すべきことはそのときどきで変わってくると考えられます。例えば,疲れている学習者に必要なのは休息でしょうし,文法習得を優先する状況もあれば,トピック,学習者のアイデンティティなどを優先すべき状況もあります。各側面をある程度重視しつつも,ある側面で他の側面より高い要求をするというように,ある活動には複数の側面から検証されるべき性格があります。
どのような側面を設定し,各側面について,どの程度のところにcriticalなポイントを見出すかは,教師の価値観(世界観・人間観・言語教育観)と知識によります。そのような判断のもとになる価値観(哲学)と知識(科学)を鍛えるのが研究だと思いますが,特に価値観と知識の関係について,みなさんと議論できればと思っています。
現場の教師の間では教師に与えられた担当項目をいかにこなすかというHow toを追求することを重視しがちである。しかしそれだけでは,教室活動の目的と自分の教室活動の実態を照らし合わせ,自分の教室活動がいったいどのような成果を生み出しているのかということが判断できなくなってしまうだろう。問題を感じた場合,なんとなく何かを変えたり,他の人がやっていることを単にまねたりするだけでは不十分で,何を問題だと捉えるか,問題を解決していくための方法として何が適切かを見抜く力がなければ改善にはつながらない。そのような力を養いながら改善の質を上げていくというプロセスを経ていかないと,実践研究にはなっていかないだろう。
ここでは,さまざまな取り組みを見て,議論することから,何を問題点としてあげるべきか,その問題点を解決するためにはどのような手段が必要なのかといったことを的確につかむスキルが育っていくプロセスについて日本語学校の事例を報告する。
このパネルの趣旨は,「実践研究」というものの日本語教育における諸問題を整理し,その研究としての位置づけを議論することにある。「実践研究」については,すでに学会研究集会委員会により「実践研究フォーラム」が立ち上げられているが,今回は,この関係者を中心にして,「実践研究」の意味と課題について提案するものである。
実践教育現場を第一とする分野でありながら,日本語教育における実践研究とは何かという議論は,従来必ずしも十分とはいえなかったことを指摘しつつ,実践研究とは何かという問題について議論を展開する。以下,パネルの次第は次のとおりである。
実践研究と言った時,抽象論だけではなく,具体的な実践に即した考察をすることによって,その実態が見えてくると考えられる。その際に,どのような実践を行ったのか,実践の内実を明らかにする必要がある。しかし,日本語教育学会発行の「日本語教育」に掲載されてきた論文を概観すると,教室データを用いて書かれた論文が極めて少ないことが分かる。「日本語教育」の中で,どのような実践研究が報告されているのかの調査結果を発表するとともに,日本語教育における実践研究の実態とその問題点を指摘する。
私たちが日本語教育において実践し促進しようとするコミュニケーションモデルとは何か。各人はそれぞれのコミュニケーションモデルを想定しているのか。日本語教員はそれについてどのぐらい自覚的なのか。また,自覚的であるべきなのか。コミュニケーション理論とテキスト理論から,主にバフチンとイザーに触れながら,私たちの日常の営みと実践について顧みたいと思う。より具体的には,発話の一回性の問題,発話と解釈の主観性の問題,相手をどう認識しているか,またそれを囲む情況という問題,テキスト(書かれたもの)と読む行為の関係などを私たちの領域の視点から捉え直し,参加者の方々と議論を深めたい。加えて,理論から応用という一方向だけでなく,実践から理論へという方向性の大切さについても考えたい。
協働学習のデザインについて議論する場においては,現場教師からは,具体的な導入の仕方や活動展開,教師の介入など実際の指導に関する疑問だけでなく,協働学習の理念にかかわる疑問がよく出される。たとえば,協働学習のグループ学習とそうでないグループ学習とはどこが違うのか,あるいは協働学習を取り入れた場合の学習評価はどのようにしたらいいのか,どのような意味をもつのかといった疑問である。協働学習はメソッドや活動形態を示すものでなく,人間社会にある社会的学びの場を教室で展開するという学習の考え方である。したがって,協働学習では認知的な要素だけでなく,社会的な要素が重要となる。この社会的要素によって協働学習のグループ学習とそれ以外のグループ学習との違いが明確になるのではないか。
評価においても社会的要素が強調されることによって,従来の学習評価のような知識の蓄積をはかる性質のものとは異なってくるはずである。学習にかかわる社会的な要因が評価に反映されるもの,あるいは教室で学習したことが学習者の社会性とどうかかわったのかを見ることができる評価となるのであろう。協働学習の評価は,今後もっとも大きな課題となってくると思われる。
学習者が主体的に授業に関れるような教室環境とはどのようなものでしょうか。02年より,
具体的な取り組みとしては
などです。
以上のような実践の中で『評価』の問題にはいつも悩まされてきました。今回は1.から4.の授業で行った「学習者への評価」と評価につながる試行錯誤の過程を振り返り,参加者のみなさんのご意見やアドバイスをいただければ,と願っています。
2005年春学期早稲田大学日本語教育研究センター3β・4βクラス(2005年4月11日~7月22日)における「活動型日本語教育」の授業実践と,それに基づいた論文執筆までの過程を具体的に紹介する。3β・4βクラスでは,担当者4名が学期開始前(コンセプト・活動目標の設定・授業計画作成)・学期中(計画の見直しと修整)・学期終了後(担当者の振り返り)の全ての作業を共同で行い,その振り返りをもとに共同で論文執筆を行なった。論文執筆は,担当者それぞれの実践での「実感」を突合せ,確認することから出発し,データ分析においては分担・相互確認を繰り返した。このように,担当者個人レベルでの,観察する・考える/判断する・実施する・振り返る・・という作業,さらにそれを複数の目(共同担当者)で捉えなおすという作業を日々行なったことが,共同での授業活動を支え,共同で論文を執筆することにつながった。この一連の作業(授業活動の準備・実施・振り返り・論文執筆)全体が実践研究と呼びうるものではないかと発表者らは考えている。