言語文化教育研究会――過去の記録

ことばと文化の教育を考える会
第3回@北京:2009年3月10~12日

細川英雄「教育と研究を結ぶ日本語教育の世界へ――自らを振り返る実践研究の試み」
ほか発表10本

開催要領

プログラム

3月10日(火)3月11日(水)3月12日(木)
9:00-C
「教室文化とアセスメント」(塩谷奈緒子)
I
「学習者の主体性を重んじた日本語教科書をめざして―新しい教材シラバス作成の実践例」(曹大峰・林洪・篠崎摂子)
10:00-D
「日本語教育における「形成的アセスメント」の理論と実践」(市嶋典子)
全体討論
11:00-E
「戦前・戦中期と戦後を繋ぐ日本語教科書の思想的変遷」(田中里奈)
昼食閉会の挨拶
14:00-開会の挨拶(徐一平主任)F
「留学生活における日本語教育の位置づけの問題」(三代純平)
講演
「教育と研究を結ぶ日本語教育の世界へ―自らを振り返る実践研究の試み」(細川英雄)
15:00-G
「学習者が語る「自分の日本語」とはいかなるものなのか」(鄭京姫)
A
「クラス参加者間の協働によるレポートテーマの形成―担当者,学習者双方の認識から」(古屋憲章)
16:00-H
「「ビジネス日本語」教育研究とは何か」(松井孝浩)
B
「授業研究とデータ―授業改善に向けた授業ダイアリー活用の可能性」(武一美)
17:00-

発表要旨

講演: 細川英雄
教育と研究を結ぶ日本語教育の世界へ ― 自らを振り返る実践研究の試み

従来,教育と研究は,別のものであるという固定観念があった。たとえば,教育のために研究は必要ないという意見がある一方,教育にかかわると研究の時間がなくなる,あるいは研究はしたいのだが教育のために時間がないという不満も語られている。これらの多くは,教育あるいは研究の捉え方に問題があり,その問題のために,自分の教育研究観を狭め,いわば自らの鏡としての考え方に自分自身を閉じ込めていることが指摘できる。

このような鏡としての教育研究観を更新し,新しい世界へ飛翔するためには,自らの教育研究活動を振り返る実践研究の世界が必要である。実践研究とは,自らの日々の教育世界を研究世界として更新させるための,重要なキーコンセプトである。本講演では,この教育と研究を結ぶ日本語教育の新しい世界へ向かうための,実践研究のあり方について述べる。

A: 古屋憲章
クラス参加者間の協働によるレポートテーマの形成 ― 担当者,学習者双方の認識から

本研究では,発表者が行った教室実践(08年10月~09年1月「考えるための日本語6A」)における「レポート検討」(各自が執筆したレポートを題材にクラス参加者間で話し合う活動)を質的方法により分析する。そして,学習者らがどのような「レポート検討」を経て,「自分だけ」のテーマを構成したのかを示す。分析を踏まえ,各学習者の自分に関する具体的なエピソードをめぐり,クラス参加者間でやり取りを重ねることにより,各学習者の「自分だけ」のテーマが構成されることを主張する。

日本語クラスにおいて,学習者が具体的にどのようなプロセスで自分に関する具体的エピソードを積み重ね,レポートテーマを構成するのかに関し言及された先行研究は見当たらない。本研究は,「レポート検討」を通して,各学習者のレポートテーマが協働的に構成されるプロセスを詳細に記述する点が特徴的である。また,レポートテーマが個人により決定されるのではなく,「協働的に構成される」という観点でレポートテーマの形成を記述する点も特徴的である。

B: 武一美
実践研究とデータ ― 授業ダイアリー活用の可能性

私たち教師は,授業準備として,どのような形にせよ教案を作成する。分きざみで何をどうするのかを書く場合もあれば,箇条書きで,その日の予定をメモしておくこともある。私たちは,授業準備や教案に関しては,大変熱心であるが,授業後の記録については,引き継ぎ目的とのみ認識されていることも多い。しかし,教室で日々起きていることを教師の視点で記述することは授業の改善や再デザインに欠くことができないものである。そこで,授業直後の教師自身による,教師の視点での記録,つまり授業ダイアリーを実践研究における有効なデータとして捉え直すことを提案したい。

教室で実践しようと計画していたこと,その結果得られたこと,得られなかったこと,計画していたが実践しなかったこと,数々の変更やその時々の意思決定が授業中にあるはずである。その教師の視点を記述することは,授業を追体験することであり,記述しつつ考えたことは,その教師の理念に通じるものであるだろう。また,1学期間の終了後,授業ダイアリーを読み直すことで,教師の理念を含めた1学期間の授業の全体象を把握することが可能になる。

次の1.~3.のプロセス全体を実践研究と考えると,授業ダイアリーは実践研究のための有効なデータであると言えるだろう。

  1. 授業活動それ自体とそれを記録すること
  2. 授業の全体象把握の後,課題を抽出し改善を加え再デザインすること。
  3. 1.,2.を発表したり論文化すること

(本発表は12月に早稲田大学で行われた質的調査法研究会における話題提供「授業研究のための質的データとは何か ― 授業ダイアリーの可能性」(今井なをみ・武一美・古屋憲章)の一部である。)

C: 塩谷奈緒子
教室文化とアセスメント

本発表では,「教室文化」という考え方に基づき,教室活動とアセスメントの関係について考える。教室研究では,古くから「IRE連鎖」と呼ばれる教室会話の型や教室内の役割・権力構造の研究がなされてきた。これまでIREは非難の対象となることもあったが,それ自体は単に「型」なのであり,それは教室に設定された目標や教室でのアセスメントのされ方と照らしあわせて考えなければ意味はない。

本発表では,教室で社会的文脈を作るということ(つまり,教室文化を作ること)とアセスメントの関係,教室文化という観点から見た従来のIRE型の教室活動と対話型の教室活動におけるアセスメントの違い,対話型の教室でいかにアセスメントの文脈が作られていくか,といったことについて,実際の教室活動データをもとに考察する。

D: 市嶋典子
日本語教育における「形成的アセスメント」の理論と実践

近年のパラダイム転換により,教育学の分野において,テストや試験での「選別的な評価」,「学習結果としての評価」だけでなく,学習プロセスにおけるエピソードそのもの,リフレクションと進捗状況の自叙伝的理解の一部等に注目した「形成的アセスメント」の必要性が議論され,具体的な実践のアプローチの開発が求められてきている。このような一連の教育評価の変換,改善の必要性・重要性は,日本語教育の場においても同様である。

本発表では,まず,教育学,言語教育における評価の理論を概観し,そこから見えてくる問題点を考察するとともに,日本語教育における評価の問題点をまとめる。そして,それらの問題点を乗り越える試みとして「形成的アセスメント」を取り入れた実践を報告する。

E: 田中里奈
戦前・戦中期と戦後を繋ぐ日本語教科書の思想的変遷

戦後の日本語教育史研究において,戦前・戦中期と通時史的な視点から考察されたことはこれまでほとんどない。戦前・戦中期の日本語教育に関する研究は,戦前・戦中期という時代区分の中で完結しているかのように捉えられ,同様に,戦後の日本語教育に対する研究は,政策の転換により国際交流・経済協力が目的とされるようになったために,戦前・戦中期との繋がりを考察するという視点は欠如していた。「戦後の日本語教育の発展は,戦前・戦中期における日本語教育の研究の蓄積によって築きあげられたものである」といった認識は共有されており,語彙や文型などの形式的,技術的な面での研究の蓄積を称賛するといった立場から,戦前・戦中期と戦後の連続性が捉えられることはあるが,思想面にまで踏み込んで十分の検討されてきたわけではない。

そこで,本研究は,教科書の分析から戦前・戦中期と戦後の日本語教育の思想的な断絶と連続性がいかなるものであるかを明らかにすることを目的とする。分析には,戦前・戦中期に発行された日本語教科書の中でも,その一部が継承され,現在も使用されている長沼直兄・言語文化研究所,および,国際学友会の一連の教科書を用いる。何がどのように継承されたのか,また,何がどの時点で削除・修正されたのかに着目し,その変化を追っていくことを通じて,戦前・戦中期の日本語教育はいかなる点で断絶したのか,または継承されたのかを明らかにする。

F: 三代純平
留学生活における日本語教育の位置づけの問題 ― 「言葉と文化の本質主義」と「言葉と文化の道具・技能主義」

留学生活における日本語教育の位置づけを,異文化間心理学を中心とした留学生教育とネットワーク・ストラテジー研究を中心とした日本語教育の双方の研究から探る。先行研究の分析からその多くが「言葉と文化の本質主義」と「言葉と文化の道具・技能主義」に基づいていることと,その問題点を指摘する。そして,留学生活の中でどのような日本語によるコミュニケーションが必要とされ,どのように日本語の学びが形成されているかという留学生個々の生活誌に基づいた考察からの日本語教育の位置づけの捉え直しの必要性について述べる。

G: 鄭京姫
学習者が語る「自分の日本語」とはいかなるものなのか ― 学習者の「日本語ライフヒストリー」から

日本語学習者の「日本語人生」で語られた「自分の日本語」の意味はなんであろうか。日本語学習者には,常にふたつの「日本語」が存在する。それは,「正しい日本語」,「自然な日本語」,「完璧な日本語」という「日本人の日本語」と,彼らの日本語である「外国人の日本語」である。しかし,自分の日本語が「外国人の日本語」であるという感覚のままでは,いつまでもコミュニケーションにおいて足りなさを感じ,それによって言えなくなるなどの悪循環にしかならないことが現状である。

日本語学習者にとっての「日本語」が,はじめは外国語としての手段にすぎなかったかもしれない。しかし,その「日本語」が,「自分の日本語」になっていくことによって彼らは日本語を使いアルバイトをし,人とコミュニケーションを行う中で自信を持つようになったり,人のコミュニケーションを楽しむようになったり,自分の「日本語人生」を豊かにしていくことが可能になることがインタビューを通して明らかになった。そして,その日本語は道具や手段としてではなく,彼らの人生を豊かにしていくことになるのであった。本発表では,学習者が語る「自分の日本語」とはいかなるものなのか,そして,それを獲得していくそのプロセスを彼らの語りから追いながら,日本語学習者において「日本語」の意味変遷が,日本語教育に示唆することを述べる。

H: 松井孝浩
「ビジネス日本語」教育研究とは何か ― 埋め込まれた日本語使用と学習活動の展開

これまで「ビジネス日本語」教育実践は法整備や社会の変化に対応していく形で展開されてきた。そして,このような経緯から現場のニーズに応えるために,「ビジネス日本語」教育研究ではニーズの的確な把握と可能な限りの指導の細分化の重要性が指摘されてきた。 しかし,このような経済活動に埋め込まれた日本語使用は,教師個人あるいは一教育機関による可能な限りの細分化で対応できる範疇をはるかに超えた多様かつ複雑なものである。従って,それらを取り出して「教える」という行為は成り立たず,その多様性すべてに対応することも不可能である。

このような「ビジネス日本語」教育研究で必要なのは,参加者ひとりひとりの社会に埋め込まれた日本語使用を教室という社会の中に根付かせていくことによって教室と社会を結んでゆく学習活動実践の展開である。このような学習活動は,参加者それぞれの背景を活かし合うこと,教室ならではの学びの活性化を目的とする。また,このような学習活動の設計には,狭義のニーズ調査にとらわれない日本語使用者がどのように日本語を駆使して経済活動を行っているかという調査を実践担当者自身が行う必要があるだろう。

このような学習活動実践と調査研究の往還による実践研究こそが新たな「ビジネス日本語」教育研究の出発点である。

I: 曹大峰(北京日本学研究センター)・林洪(北京師範大学)・篠崎摂子(国際交流基金日本語国際センター)
学習者の主体性を重んじた日本語教科書をめざして ― 新しい教材シラバス作成の実践例

外国語としての日本語教育では,教科書の役割が大きい。中国ではこれまで,教材編集の実践活動が教室活動とともに重要視されてきたが,現在は,教材研究を通して,言語学・外国語教育学・教育工学など広く学際的な成果を盛り込んだ新しい日本語教材の作成実践とその研究活動が行われている。その一例として,北京日本学研究センターでは,最近,中日両国の大学や教育部門の研究者の協力により,「中国の日本語教育における主幹科目『総合日本語(精読)』に関する総合研究」と「中国の日本語教育のための新しい教材像に関する研究」に続き,教育部「十一五企画」教材出版計画で採用された新しい教材の作成とそのための総合シラバスの研究が実施されている。

本報告では「学習者の主体性をどのように発揮させるか,学習者の主体性と教師の主導性の関係をどう考えるべきか」という点をめぐって,上記教科書シラバスの作成研究の現状を報告させていただきたい。