八ヶ岳アカデメイア――世界各地での実践・講演:2002年3月:ドイツ語圏日本語教育研究会シンポジウム
参加レポート
1 参加者のレポート全タイトル
- 家-私には兄がいる/白石 文子
- 人間の身勝手さについて/飯島
- 外国語を話すことについて/土肥 由美
- ウンレルリンデンについて/高橋 清彦
- 二人目の子供について/Annette HANSEN
- 非識字ということ/真島 潤子
- 岩木山について/田中 美由紀
- 歌/アイスマン
- 老後の過ごし方/太田 秀月
- 陶芸について/高取 秀司
- ことば化[PDF]/山田 頼子
- フィンランド旅行で感じたこと[PDF]/橋本 弘美
- ○○大学の日本語教科書更新について/M.ウンケル
- 敬語と言語教育について/野呂 香代子
- 高い所からまちを見ること[PDF]/伊藤 明子
- 森について/SAWATARI
- 決断について/松尾 馨
- 「生け花」について[PDF]/久保田 美子
- 「生き甲斐」について/酒井 康子(ライプチッヒ大学)
- 家族について/的場 一真
- 自転車乗り/小野田
- 論理的思考の訓練について[PDF]/川邊 亮
- 英語を学ぶことについて[PDF]/角谷 奈津
- 自分の興味・関心について書くこと,あるいは今回の宿題について/中山 公子
- グロバリゼーションとは一体何なのか/高井 不二子(ゲッチンゲン大学)
- 海と私/大久保 幸子
- 犬と散歩/笠井 宣明
- ドイツで生きていく秘訣について[PDF]/田村 直子
- 日本語を教えるということについて/PAUL 礼子
- 「手を上げて横断歩道を渡りましょう」という標語について/下羽 友幸
- 「仕事が趣味,趣味は仕事」ということについて/斎藤 瑛子
- インターネットについて/
- 日本人の子育て方について[PDF]/クルーケ・クラウディア
(順不同・敬称略)
2 参加者のレポート作品
二人目の子供について / Annette Hansen
動機
私は三才のかわいい息子を持っています。そろそろもう一人はどうかという質問が浮かんできました。子供にとって兄弟を持っているのがいいことだし,二人目が生まれてから,初めて家庭が成り立つし,女の子もほしいなどと思って,もう一人がほしいです。一方,仕事がすごく好きで,一年間でもやめたくなくて,自由時間も寝る時間もほしくて,長男が三才になってやっと生活が楽になったところでもう一度苦労をする気はあまりないし,夫も反対です。
二人目を作ろうかどうかは私にとって非常に決意しにくくても早く解決しなければならない問題です。
ディスカッション
ディスカッションの中でいろいろな思いついたことのない事が出てきました。
まずインタビューの相手が私の気持ちをよくわかってくださったのでほっとしました。そして,偶然に任せばどうかと聞きました。それは私はびっくりしました。ドイツ人なら自分の人生ですからなるべく自分で決めた方がいいという考え方が多いでしょうが,日本人は違うらしいです。主人と私にそういう見方ができるかわかりませんが,ちょっと考えてみたいと思います。
グループも興味深い指摘をして下さいました。二人も育てる余裕はあるかとは大事な質問でした。が,それは多分大丈夫だと思います。
一年間仕事をしなかったら仕事を失うか,という質問も出て,ちょっと答えられませんでした。自営ですから,顧客を失う恐れはあると思います。
それから,最初の一年間が問題なら,では,一年間か子供かということになるという指摘がありました。非常に納得がいく指摘でした。やっぱり十年たってからの立場から見たら,わずかの一年間に見えるでしょう。
主人がもっと面倒を見たら私も仕事を続ける事ができるので,私の問題よりも主人の問題ではないかという質問がありました。それもよく考えるべきだと思います。でも,主人が「そうだけど,私は反対だ,もう一人いらない」と言ったら,それで終わりでしょう。しかも,グループの一人が指摘してくださったように,私の中にも矛盾する意見があります。
おもしろいことに,他のグループの人も,そのテーマについて私に声をかけてきて下さいました。そしてみんな「是非作ってください」とか「一人じゃだめ」とかいう意見でした。私はとても感動しました。
結論
この,私にとってとても大事な問題について今でも決意はできません。賛成と反対のリストが二三項目長くなっただけです。でも,その項目に大事なものがある気がします。皆さんの指摘のおかげで,これからその事を考えたり主人と話し合ったりするためのたくさんの新しい角度からの見方や新しい質問がわかって,決意への長い道を大分進んだという気がして,とてもありがたく思います。
グロバリゼ-ションとは一体何なのか? / 高井不二子(ゲッチンゲン大学)
動機
私にとって,グロバリゼ-ション(又はグローバル化)とは情報・物質的に人類に限りない豊かさをもたらしたものではあるが,逆に,それがどこに我々を導いていくのか確かな方向性が不明瞭で,混沌としているため,恐怖の対象である。事実,我が身近な生活世界を振り返ってみても,競争社会を「生き延びる」ために,そして,その権利,権力を獲得するために,他人をおとしめる「いじめ」的な争いが至る所で繰り広げられているゆえに,隣人との平和共存が心底,望まれる。すなわち,世界がグローバル化するにしたがって,個々の人間が孤立するという逆説的現象,そしてその弊害が生み出されている。
ディスカッション
ワークショップで受けた質問やディスカッションを通じて,テーマのグロバリゼ-ションの弊害として,特に対人関係にあらわれる現象が私にとって,明確になった。これは大きな収穫であった。下記の論証の中にそれらのいくつかをはめ込んだ。上記の動機のまとめもその時の議論を考慮に入れて,書き直した。
上述の動機をもたらした考察
初めてグロバリゼ-ションという言葉を耳にしてからもう久しい。ワープロで世界のほとんどすべての言語が書けるようになり,インターネットにより世界中の人々とほぼ同時に情報交換ができるようになった。バーチャルの世界だけではなく,実際に,世界の至る所に暮らす生の人間が縦横に行き来し,様々な国々,民族の文化交流が必ずしも国家間の政治的レベルではなく,個人レベルで,あるいは小集団レベルで自然発生的に始まり,そして,それがさらに予期しない集団的ダイナミズムで流動的に転換している。
世界がグローバル化したおかげで,個人レベルにおける国際交流の場が生まれて,世界各国の人々と知り合える機会ができた。事実,私がドイツで知り合った友人の半分以上はドイツの国籍を所持しない。
グロバリゼ-ションにより,政治,軍事,文化,芸能,教育,科学,学問,などの,あらゆる分野で,それぞれの知識,能力,権力,資本の集中化が始まった。
至近な例でいえば,英語なしにはどの国でも科学や学問が成立しなくなってきた。
それにより,これまで西洋社会で制度として確立され,維持された,三権分立を原理とする民主主義が機能しなくなりつつあり,世界の平和共存の理念が危険に面している。例えば,そのために,国連機構が実質的には発言力,権威を失って来たように見える。ヨーロッパ統合はまさにそのような動向に歯止めをさして,ヨーロッパ圏内の平和共存を目的にできた政治的集合体である。
農村などを含めた地域社会や小集団グループにまで「国際社会」が浸透してきた現在,グロバリゼ-ションによる多様性社会の構築,それにともなって,ますます不透明さを増す社会と特殊な人間集団が発生している。信仰宗教のセクト,テロ行為を企てる急進的過激な集団がそれにあたる。昨年の9月11日に起きた世界貿易センター突入のテロリズムがその具体例である。
従来,通用していた論理,価値観,価値基準に疑問符が打たれた。比喩的に表現することがゆるされるのならば,川が上から下に流れるのが当然とされていた時代が過ぎ去って,下から上に流れる川もあり得るのだ,ということを認めない限り,真実の核心を見抜けないと考える。例えば,教室内活動で,日本語の誤用に対して,その間違いを指摘する前に,なぜそのような表現を学習者がするのか,学習者の立場に立って考えてみることが必要であり,彼等の思考の論理を追ってみることが理解への不可欠な条件になる。
結論
このレポートは,この世に暮らす人類の半分を無用にさせる,過激なグロバリゼ-ションの弊害に気がついて始めた考察であった。国家レベルでのグロ-バルな動向が実は個人の生活に直接影響を与えて,その自由を脅かす危険性があることがわかった。そこには個と全体を連結する,普遍性のある「核」が両者に存在するはずである。自己を社会構造から影響を受ける(作用される客体として)モノとして,相対化しながらも,その一方では自己をより良き社会に貢献する主体として,自己の社会参与と実現の可能性を探究したい,と考える。そのためにこそ,世の流れを冷静に,広い視野で観察する精神,理性,そして言語を含む能力を養成すべく,自己錬磨を惜しまず,持続させていきたい。
「生き甲斐」について / 酒井康子(ライプチッヒ大学)
動機:どうして「生き甲斐」なのか
「生き甲斐」としての仕事一筋に猛進してきたことに,最近むなしさを覚えるようになった。当時13歳だった末の娘の,そしていろいろな段階での判断をしていかなければならない難しい時期の息子を残しての渡欧。 子供,家庭を犠牲にしてまで,やってきたことは一体何だったのだろうか
ドイツ生活7年目にして,子供達はそれぞれ成長し,親の間接的な口出しなしにも生きていけるようになった今,「生き甲斐」が見えなくなってしまった。私にとって,「生き甲斐」とは何だったのか。そして何なのか。
仮説:人間の生き甲斐とは,結局は自らの夢を達成するためのひとりよがりで我が儘なものではないだろうか
デイスカッション
仕事が生き甲斐で,突っ走り,気がつくと何の趣味も他になく仕事だけの人生。それでも仕事のあるうちは,時間がくれば,仕事場に行き,こなしていく,しかもそれは単に義務としてではなく,その中にやり甲斐を見い出し,何よりも好きであったからやってこられたのはないか。「仕事が趣味,趣味は仕事」と言えるようになりたい,と私の尊敬申し上げている大先輩は続ける。先輩も仕事一筋にいらっしゃって,今は少しそのスタンスを変えたいとおっしゃる傍ら,やはり,まだ仕事中心の生き方から抜け切れていらっしゃらないのかなともお見受けする。淡々と語られる中に,この方の中にも,今の自分と同様の悩みがあったのかもしれないという妙な安心感と親密感を抱いた。「あなたは日本から離れていても,日本人として,日本語,日本を通してものを考え,見ていると思う。利己的に生きていると言うけど,結局は私自身を生き抜くことが大切よ。落ち込んだ状態に留まっていてはだめ。常なる積極的な好奇心をもって,外に向かって働きかけていかなければ。」
ふと,数カ月前に言われた我が教授の言葉が頭をかすめた。自信を失い,生き甲斐をなくしていた私に,「康子,50年間生きてきたのでしょう。」ポンと投げかけられたこの言葉に,反対に脅かされた。一体私の今までの50年は何だったのだろうかと
また,別の友人は語る。「あなたの中で子供,家庭をほっぽらかして生きてきたことの罪悪感が大きいようね。しかしあなたのテーマは誰もがぶつかる問題だと思う。今人生の後半で,ちゃんと向き合って考えなければならない。」
こうした話し合いの中で,生きていくということはなんと大変なことなんだろう。と思い,かつまた,誰にも話せずに今まで溜め込んでおいたこんな私的なことを言葉にして吐露することは,いかに多くの人々がまた同じ様なことに悩んでいるにせよ,自分のすべてを曝け出すようで,どっと疲れを覚えてしまった。
しかし,話し合いの後も,なおかつ生き甲斐というものはある程度,他を犠牲にしても貫き通す我が儘でひとりよがりのものであるという考え方は変わらなかった。だからどうなのか。そこで終わるんじゃなく,だからそれはネガティブなんだという考え方からは,少なくとも一歩這い出すことが出来たような気がする。
なぜならそれを肯定するも否定するも,まだ私の人生は終わっていないのだから。 「現状に満足しないで,悩むことは常に向上を求めていること。結局最後まで悩み続けていくのかもね。」と人生の達人のお言葉のようにプラス志向で考えようか。
結論
「生き甲斐」というものは金銭を抜きにして,自分の情熱を傾けていけるものであり,「個」としての自己実現に向かっていくことである。
我々は他人との関わり合いの中で支えられ生き続けていけるのであるが,いかにその中で「個」としての自分を位置づけていくか,すなわち深めていくか,ということを考えれば,他者との関わり合いの中で私自身の「生き甲斐」を測ることなどできないんじゃないか,という疑問が出て来た。
他を尊重しつつも,「個」としての自分を確立していくことは,まかり間違えば利己的になりかねない。しかし,自分が自分であることの意義を見極めながら生きることが,すなわち今の私には,自分自身すらも見えなくなっていたのではないのだろうか。私の問題は家庭という別次元の問題をそこに結び付けて考えているから矛盾が生じてきているのではないか。
そうだとすれば,とにかくいつも前向きに考えながら,丁寧に終わりまで歩みを進めて生きていくこと自体,昨日までより,もう少し納得して生きていくこと自体が,もしかしたら,今の私の「生き甲斐」なのかもしれない。そして,それはそんなに大上段に構えたものなどではなく,少しだけ気持ちよく生きていくための方法を日常の中に見つけていく程度のことなのかもしれない,と思いあたった。
それともう一つ。チームの中の方からの一つの言葉が印象に残った。今の世の中には「生き甲斐」を見つけだしにくい要素があるんじゃないか,ということである。社会に責任転嫁をするわけでは,毛頭ないがちょっと救われた気がしないでもない。
なぜならそれを見出せない人が私の他にも大勢いて,むしろそんなもの必要ないんじゃない,という若者すらいると聞くと,仮にも人生の半分以上を自分の信じていた「生き甲斐」を持って生きて来られたことは逆に何と幸せなんだろうと思い始める。
これからは遠くに目標を定めた手の届かぬ「夢」を追うのではなく,地に足のついた現実の中で,今まで生きて来たことを振り返ってばかりいるのではなく,これまで生きてきたことから自ずと出てくる知恵を総動員して,アンテナを張り巡らして生きて行く中から,小さな楽しみと安らぎを見い出して行こうか。
終わりに
思わぬところで,日頃気にかかっていた問題に真っ向から取り組んでしまった感がある。テーマを選ぶ時点でかなり個人的になるな,と思い少し考えた。しかしだからといって,今一番気にかかっていることをなおざりにし,適当な当たり障りのないテーマにすれば,うわすべりの言葉だけのやり取りになると思った。
しかし,真面目に取り組めば,それだけ,きちんとした何かを求める気持ちが強くなった。何かは相手から得られるのではなく,考えて,話し,何回も書いているうちに,自ずと,他の考え方ができるようになった。それが,たとえ間違いであろうと。
3 院生のレポート
ワークショップに参加して / 張 珍華(チャン・ジンハ)
1. ワークショップの限界点
「レベル5のクラスです。何となく雰囲気をかんじとって頂ければいいです」という細川先生のコメントからクラスのビデオ上映と同時に,シンポジウムの中のワークショップが始まった。川口先生が担当する初級クラスの学生と細川先生とのインタビュービデオも上映された。ワークショップの参加者達が実際に作文をする前,教室の雰囲気を取ってもらいたいという趣旨に比べ,ビデオ上映後に参加者から出た質問はもっと深いところまでを要求しているように感じた。私はこの質問のやりとりを録音していないため,この場を借りて自分のメモを参考として,要約文の形でまとめてみることにした。
[表記法 : Q(質問,参加者)A(答え,細川)]
- Q:
- レポートに対する評価基準は何か。
- A:
- テーマを自分の問題として捉えているか,グループでの意見をどのように取り入れたか,動機と結論に一貫性はあるか,この三つのポイントである。
- Q:
- 日本事情の教育として機能を果たしてないようだが。
- A:
- 表層的な日本事情教育はこのクラスには存在してない。知識的な日本事情教育は崩壊すべきであると思っている。このクラスは「自分の問題として捉える」訓練の場である。
- Q:
- 一週間にどのくらいこのような授業を行っているのか。
- A:
- (早稲田の日本語センターパンフレットを用いて説明)
- Q:
- 日本事情に関しては取り扱う必要がないと話したが,読解はどんな教材を用いて行っているのか。
- A:
- 新聞,雑誌を抜粋したり,とにかく生の教材を使ったり,変更・調整して使う。
- Q:
- 内容的にみると日本事情ではないのか。
- A:
- その可能性もあるが,内容そのままを議論することになると,読解自体が持つ役割がクラスによって異なってくる。
- Q:
- 背景的なものがあるのではないか。
- A:
- あるとも言えるし,あり得ないとも言える。しかし,背景的なことが何かについて議論されてないことが問題である。
- Q:
- 「自分をくぐらせる」ことについて
- A:
- 教員養成講座などでこの話をした時に反発が多かった。「自分をくぐらせる」ことについて誤解してはいけない。自分のプライベートの事を話してほしいと言ってるのではなくて,「興味の在り処」について話してほしいと言っているのだ。テーマを選択した時に,「なぜそのテーマを選択したのかをみんなに分るように」ということを前提としている。つまり,自分が興味のある対象,なぜ私がその対象について興味を持っているのかを,対象と自分の関係を相対化してほしいのである。
- Q:
- レポートの活動は教師が決めるのか。
- A:
- 脚本を書いてみたり,インターネットのホームページ,商品のための宣伝文集を作ろう等,「書くこと」「文字化」は必要だと考えている。まとめとしてはスピーチで終える場合もある。
- Q:
- インタビューに対する手当は。
- A:
- 教師のテクニックが必要。
- Q:
- 授業形式が成り立つ要件は日本人学生とのやりとりが含まれているのではないか。
- A:
- それはそうだ。集中力を要する授業であるため,以前はボランティアの参加があった。今は大学院生達も参加している。
- Q:
- 教室の中のアドバイス,思考方式の交流を通じて,意見のぶつかったりする場合があるのか。
- A:
- まさに,その通りである。
- Q:
- インターアクションの中で教師の提言が必要なのか。
- A:
- レベルが低くなればなるほど自然にそうなるが,「こう言えばいい形」というふうではなくて,相手のモチベーションを優先して,必要とされる時だけ与える。
- Q:
- 細川先生が言うコミュニケーションから教育が可能なのか。ホームステイや外国人の相撲選手が日本語を習得するようなことと,細川先生がいう教室の中のコミュニケーションは同じコミュニケーションの過程である。そうすると,教室の必要性はどこにあるのか。教師はプロでないといけないのでは。
- A:
- 教室を組織化することに教師の役割を見ている。ただ語彙・文型と場面をつなぐだけではなく,教室そのものをどのように組織化することが出来るか,ということが教師の仕事であり,そういうことができる教師がプロの教師であるとも考えている。
- Q:
- 日本語教師の存在価値は。
- A:
- いかに組織化するか,どういう環境作りをするかが問題。これは機械は出来ないことであるし,人間だけが出来ることである。
- Q:
- 教室の中でも,教室の外でも日本語を使えることがプラス要因として働いているのではないか。このような環境が変わってもこの活動は可能なのか。
- A:
- 教室の中とは集中的に組織化した空間であるため環境が変わっても同じである。要求する時間は言えないがこのような原理的なことから環境が変わっても可能である。
ここで,私が感じたのはワークショップでは総合クラスの中で行っているコミュニケーションを分ってもらうことが不可能ではないかということだ。「何となく雰囲気をかんじとって頂きたいです」が簡単そうであるが,結果的には不可能だったと思われる。
「教室の中で思考の交流,意見のぶつかり合い」がコミュニケーションであり,教室運営者が狙うことであると説明しても,なぜ教室の中で意見をぶつかり合いながらコミュニケーションをしなければならないか,そうすることによって学習者の日本語にどういう変化がありうるかを,実際3ヶ月間のクラスを参加してみない限り分ってもらえそうもない気がした。
それから,もう一つは,ワークショップからはクラス内の教師の必要性が伝わらないことである。総合の教室から習う日本語と,外国人の相撲選手が日本で生活しながら日本語を習得することと,つまり,自然習得する日本語と違いがないのではないかと質問した参加者は,きっと教室の中での教師とは何もかも「力」を握って発揮するような存在とした確信を持っているようだった。それに比べたら,総合クラスでの教師は何の「力」も所持してなくて,何もやっていないことになる。
プロの日本語教師像の相違を今回のワークショップからは埋められなかったような気がした。
2. ステレオタイプとは評価好きの知識人から生れるものである。
私は「○○と私」のテーマで作文をしながら,そして,人の作文を読みながら,仮説になかなか辿り着けないケースを幾つも遭遇したことがある。なぜ仮説としてみんなに認めてもらえないか,その原因を考えた時,一つは,本当に自分の問題として捉えてないこと,もう一つは,自分の問題として捉えてはいるのだが,まだ自分でも明確な立場を持てず,もやもやしている形のままで文字化してしまったこと,そして,もう一つは,今・現在の自分の立場でないこと。以上三つの要因が言えるのではないかと考えた。
今回のワークショップの中でも,私が思う二つ目の原因でうまく文章にすることが出来なくて泣き出してしまったケースがあった。それを参加者達のほとんどは「学習者に対するケア」「コミュニケーションの仕方」「教師が持っている方法論」に問題があるという風に受け止めたようだった。
そして,その対策として参加者達から,幾つかの例から選んで書けるようにテーマの範囲を教師側から決めてもらうこと,そして,インタビューやディスカッションの時にはどのように質問をするのか,具体的には質問の内容と形までを決めること,即ち,マニュアルのようなものの要求があった。それから,教室全体のルールという形として「人の話をちゃんと聞くこと」「相手の話を尊重すること」をあげた。
私は時間を置いたインターアクションを行っていないのに,そのような結論を早くも出してしまうことに大きな疑問を感じながらも,マニュアルのようなものが必要であるということには,参加者が言ったことと同じではないが,何らかのヒントや刺激を私に与えてくれた。しかし,「人の話をちゃんと聞く」「人の話を尊重する」という,ごく当たり前の事が教室のルールとして必要だと言ったことについては,どうしても,それが出来なかったという反省のようなものでしか聞こえなかった。
しかし,参加者達のディスカッションに参加しながら,私は共通する特徴のようなものを感じた。「私の問題として捉える」ことに対して,ほとんどの人が自分が考えている事からではなく,持っている知識を用いて,相手の文章全体や仮説に関する「評価」をしようとすることだった。
つまり,動機と動機のまとめ(仮説の部分)について一貫性があるかを基準として, 「みとめる」ための質問ではなくて,その内容の評価を行うことから,私は参加者が総合活動について大きく誤解しているのではないかと思った。そして,「人の話をちゃんと聞く」という表現は,相手が自分の問題として捉えていることが分った段階でその文章をみとめる,その上,自分も同じテーマについて仮説なり,エピソードを相手に投げかけてみることが総合活動であると気づいたことから現われたルールではないかと,私なりに推測してみた。
というならば,「人の話」を常に「評価」を通して思考することとは何を言うのであろうか。評価が主な思考の基準になることの一番大きな欠陥とは,「良し」「悪し」「断定」「固定」「不動」の意味が含まれることだと私は考えている。「みとめる」こととは「良いとしてみとめる」「悪いとしてみとめる」「その認めを断定,固定させる」ことではないと考える。相手の思考の表明をそのままみとめることである。その意味で総合クラスは,学習者の思考をもっと良いものに導いていこうとすることに主な目的があるのではない。しかし,常に何らかの形で学習者へプラス方向の思考の発展は付随的に実際もたらしていると私は思っている。
私は,物事を「評価」として思考することは「不動的」な可能性が高いと考えている。「評価」とした思考が「流動的」になるためには,自分の中で一回出してしまった評価を否定しなければいけないプロセスが待ち受けている。それは事実を他の角度から見る必要があるため,非常に妥協しにくい所があると思われる。智識が豊富であると自負する者は持っている自分の知識を否定するように感じやすいため,もっと私が考える妥協が難しくなると感じた。つまり,一回下してしまった評価は非常に変わりにくく,個人個人が違うすべての事に関しての評価は難しいので,経験のある評価を基準として同じ評価をくだしたり,集団としてみようとする傾向が出てきてしまったのではないかと思われる。
このように,思考の基準とした「評価」の働きから,自分の相対化の難航をもたらしたり,個人としての立場不明を表わすステレオタイプが生れてくるのではないかと,私は今回のワークショップから感じた。
「グローバル化時代の日本語教育・日本事情教育-理論と実践」のワークショップ報告 / 蛇抜優子
ワークショップの概要
- 3月22日 17:00-18:30 「問題発見解決の場としての日本語学習」
- 「総合日本語教育」の概要説明とビデオ映像の提示(総合のクラスでの相互自己評価のシーンのもの) 説明の後にもう一つのビデオ映像の提示(初級クラスでの自己紹介と趣味を聞き出すシーンのもの)
- 「テーマの設定とテーマ選びの動機 動機のまとめ(仮説)」を表出するための説明(参加者は部屋にある6つのテーブルに3人から8人位で座る)
- 自分が現在において関心のあること興味のあることを「○○について」のような形でテーマ設定する
- どうしてそのテーマを選んだかの動機メモを書く
- その動機よりまとめて「○○は私にとって××だ」の動機のまとめを書く
- 参加者のテーマを聞いての院生からのアドバイス
- 生活に関連したものと時事社会問題的なものとに大体二分されるので前者で書く方が書きやすいであろうし,他者にテーマ選びの動機を知ってもらうためにエピソードを提示するのにやり易いであろう
- 参加者に上記の分をA4半分(400~600字)程度の量で次の日の朝までに書いてきてもらうように指示
- 3月23日 9:00-12:30 「コミュニケーション能力と文化リテラシー」
- 「このワークショップで何をするか」のプリント配布とその日のスケジュールの説明
- 前日の動機のまとめから対話の相手探し,対話のグループでの報告から結論までのレポートの形の提示
- 昨日までの感想や自分のテーマと動機に関しての短い報告を一人ずつにしてもらう
- コピーされたプリントをもってディスカッションする相手を選び,動機について話し合う(院生はディスカッションの相手をする)
- 話し合った結果をグループで報告し,他の人の意見をもらう(院生は机間巡視)
- グループでの報告のディスカッションを発表する
- グループで出された意見を参考にして結論をまとめ,全体を完成させる文章を書いてくるのが宿題として出される
- 3月24日 9:00-11:30 「言語都市環境設計者としての日本語教師とその役割」
- 前日までに提出された各人のテーマと動機のまとめ(仮説)をまとめた一覧表を配布。今日のスケジュールの説明と前日の感想(テーマ,動機も含めてのもの 1人20秒くらいで)
- グループでディスカッション(院生は机間巡視)
- ディスカッションの報告発表を各グループでする
- まとめと反省
ワークショップの感想
3月24日の「ディスカッションの報告を各グループでする」の時に,あるグループから「私をくぐらせて」書くことというこの学習の枠組みが強調されたこと,又動機のまとめで「○○はあなたにとって何ですか」の質問で院生が机間巡視で参加したときに連発し,プライバシーを聞き出すような雰囲気がグループ内に生成され,グループでのディスカッション時に当該する人物はプライバシーを語ることを余儀なくされ精神的ダメージを受けワークショップに出ることを拒むという出来事が起こったことの報告がなされた。そのときに筆者に印象強く訴えた「○○はあなたにとって何ですか」というプライバシーを抉るような質問という指摘に答えて,筆者はこの活動での「○○は私にとって××である」という動機のまとめ(従来のことばで言えば仮説)はレポート記述のためにある過程であることを述べた。又,そのような精神的なダメージ(「傷ついた,こころに痛手を受けた」というような表現であったか)の修復があるとしたらそれはディスカッションのグループ内でなされるものであろうということと,その状況下で何故当該者が自らがディスカッションのあり方に異を唱えなかったのかという疑問を呈した。それに対して筆者としてこの件にどのように対処するかとの質問があったので該当者からのアプローチがあれば対話することを拒否するものではないが,こちらからアプローチすることはしないということと,繰り返しになるが当該者が問題と捉えたことに声を発するのがこの学習での本来的なディスカッションのあり方ではないかと述べた。この筆者の発言に対して不快の念を表明した参加者がいた。(ワークショップ後,この人物からは「本来的とか本来あるべき」ということばの使い方が主として不快の念を催させたのであろうと推察される)この後,報告をしたグループのメンバーから今問題になっているのは個人攻撃を旨とするものではなく,この学習の方法論に問題はないのかということで,このような事態への教室運営者の対応処置はどういうものなのかという質問が出た。それに対して,教室運営者(もしくはファシリテーター)からそれにはインターアクションしかないという回答があった。その他にもディスカッションでのルール作りが必要なのではないか,時間内に課題として与えられたことをこなさなければならないという日本語教師側の日常的になっている自覚なき授業のやりかたも問題ではないかなどの意見が出された。
筆者はこの出来事を通していつものことながらコミュニケーションの難しさとそれだからこそことばを尽くしての話し合いがなされる必要がることを考えた。その時に自分の意見,立場表明を明確にしないことには相手にこちらの意思は伝わりにくいと考える。そこで意見を発するのであるが,往々にして相手はその態度表明の際立ちの強さに驚きを覚えるもしくは自己主張の強さを感じとってしまうのである。これを受ける側からするとことばが暴力として機能していると受け止め,相手の人格に問題ありとして関わりたくないと即断し対話を打ち切るのがよく見られる現象である。自己主張した側は相手が黙することで対話の力学としての説得力が効を奏したと判断することもある得る。対話を打ち切った側は不快の念をこれ以上深めたくないという自己防衛が自然に働くとも考えられる。そしてこのことばでのコミュニケーションにおける力学をその時点だけの現象で捉えた第三者の評には,ことばの力を暴力として用いてはいけないとか相手の気持ちを慮ろうという類の一見正論と見なされる常識が適応される。しかしながらこの論には大きな陥穽がある。もしいつも自分の発することばがそれを投げかける相手の顔色や反応を見て相手に不快感や驚きや違和感をもたらさないようにとの配慮によってブレーキをかけるとなると一体どのようなことばを発すればいいのかという疑問をことばの使い手に投げかけるのである。その結果は極端な場合には明解な態度表明は避けるということになる。もしくは,注釈や前置きの多い物言い,玉虫色のあいまいな表現になることが多いということを私たちは経験知として知っていないだろうか。このような一見すると協調的な状況把握においてはことばの発信者はそのことばの言質を取られないように思考する方向に向くことが往々にしてある。そのようなナイーブなコミュニケーションからは質の高い深みのある議論は形成され難いというのが筆者の見方である。又,一方的な自己主張の応酬でも議論は平行線を辿るだけである。ここで必要なことは態度表明による一方の他方への感情的な揺さぶりが掛けられときに,他方はその感情の揺さぶりが何故起こるのかを問い正してみるのである。これが対話において同時に相方向的になされ時に,お互いが内省と相手への問いかけと応えによって往還関係が構築されるのである。こうすることで必ず感情が揺さぶられた原因を相手とのことばのやりとりの内から探し出せるし相手にその原因を提示して合意を得られるのである。この過程を認識できたときに「自己の相対化」ができたものと筆者は捉える。
多くの人が「円滑なコミュニケーション」のためにことばの使い方を学びたいと願い,それは言語習得の目的とまで標榜されている。しかしどのような考え抜かれたことばを用いても人間同志の意思伝達が円滑に行くという保証はないのである。それはことばを発する人間の思考がその丸ごとを表現することは不可能であると共に,その発されたことばを相手が認識するときには元の人間の思考からは一段とずれた形でしか認識されないという宿命を持つからである。これを私たちは「誤解」と称しているが,その「誤解」を少しでも小さくするためのものが話し合いであろう。そしてその話し合いのときにもしルールというものが各自の意識内に課されるとしたら,それは相手の発したことばにとことん誠実に付き合うということになるであろう。その誠実さこそがそれこそ各自に自覚され得るものであろうし,そこから自律した個と個のしなやかな人間関係が展望されるので筆者は考えるのである。
最後に今回のワークショップの反省と提案を箇条書きにまとめ,「総合活動型日本語教育-問題発見解決学習-」をより柔軟で普遍性の高いものにしていくための方向を示す。
- フレームとなる「テーマ,動機,動機メモ,動機のまとめ(仮説),ディスカッション,結論」と言った細川術語を詳しく説明する。そのためにはこの学習が目指す理念を含めての方法論が学習者に簡潔に提示されることが望ましい。
- レポート作成の過程での「私をくぐらせること」の意味がプライバシーを侵害するものなのではなく,自己相対化のためのプロセスであることを分ってもらう。そして今後予想される今回のような出来事の再発を防ぐために,必要ならば学習者は自律的に自己モニターをかけ議論の打ち切りを宣言できるのだということを明言する。
- この学習はレポート作成過程からレポート完成,相互自己評価までの一連の動的流れを辿って一応完結するものであるが,それは尽きることのない人間の不可疑性追求の途上のものであるとの認識に立てば,それに必要な時間はいかなる状況のときでも十分とは言えない。従って,毎回の活動で学習者が学習の過程のどこに位置しているかの状況把握を促がす必要がある。特に今回のようなワークショップでは参加者は学習者側と教室運営者側の両面を体験することになり混乱が生じたと考えられるからである。
- テーマ設定,テーマ選びの動機メモから動機のまとめまでの考えを記述化したものを学習者がもって話し合う相手を選ぶ時の相手探しは当該の人物の意思決定と交渉力に委ねる。そしてその組み合わせでもう一方の学習者の動機のまとめについての話し合いをすることを基本とする。しかし齟齬は生じた場合はこの限りではないものとする。この際,「○○は私にとって××である」という形で文章化が困難な場合は,話し合いの相手がそれを提示して相手の合意を取るということも可能とする。これはよりよく自分を相対化することの手法として有効と考える。
今回のワークショップに参加して,「問題の発見と解決」という人間の営みの縮図がそこでも展開したことを実感し,遠くベルリンまで足を運んだ意味の深さと充実感を現時点で噛み締めている。このような貴重な場を設定して尽力してくださった関係者とワークショップに参加し熱心に活動された方々に感謝の気持ちを表したい。