八ヶ岳アカデメイア――世界各地での実践・講演2002年3月:ドイツ語圏日本語教育研究会シンポジウム

基調講演:細川英雄
言語学習環境論――生きた鳥を野に放つ教育理念

  1. はじめに
  2. 言語教育における言語と文化を統合する立場
    1. 文化Aの立場
    2. 言語Bの立場
    3. 文化Bの立場
    4. 言語と文化を統合する立場
  3. 総合活動型日本語教育とは何か
    1. 位置づけ
    2. 具体的な対象と目標
    3. 問題発見解決学習の3つのポイント
    4. 教室活動の問題点
  4. 言語都市設計者としての役割
キーワード
総合活動型日本語教育,問題発見解決学習,日本事情,言語文化,教育理念

はじめに

ご紹介いただきました早稲田大学大学院日本語教育研究科の細川英雄です。本日このような形で私が日頃考えていることをお話しすることができ,大変光栄です。まず,お招きくださったドイツ語圏日本語教師研究会ならびに山田頼子会長に厚く御礼申し上げます。

主に日本において私は日本語教育の仕事に携わっていますけれども,それがドイツという場所でどういう議論することができるかということを楽しみにして参りました。ですから,できるだけ双方向的な形で議論ができるよう,間にビデオ等を挟みまして進めたいと思います。そういう意味で多少従来の伝統的な講演スタイルとは違うものになると思いますが,よろしくお願いします。

まず,今回のシンポジウムでは大きなタイトルとして「グローバル化時代の日本語教育・日本事情教育―理論と実践」というものをいただき,その上で,「言語学習環境論―生きた鳥を野に放つ教育理念」という大変すばらしい題が付いていますが,これは山田会長から私にいただいたもので(笑),とくに私が否定する理由がありませんでしたので,これをこのまま引き受けするということで承諾しました。もちろん,承諾したわけですから,サブタイトルの責任は私にあります。

それから,ワークショップの方で,それぞれタイトルが付いています。(1) は「問題発見解決の場としての日本語学習」,(2) は「コミュニケーション能力と文化リテラシー」,(3) が「言語都市環境設計者としての日本語教師とその役割」という風に一応一つ一つタイトルを置きましたが,それは連続した一連のものとしてのワークショップと考えていただきたいと存じます。したがって,はじめのタイトルである「言語学習環境論」というものが全体を示す概念で,ワークショップはそれを更に具体化し,実践の場でどういうふうに行うかを,皆さんと一緒に考えていきたいというコンセプトで構成されています。

私が日本事情というものに関わりはじめてから17,8年になりますけれども,今日私がお話しすることは,その中のいろいろな試行錯誤の上で考えたことで,私のポジションとしては今ここにいるということをお話しします。もちろんそれは私のポジションですから,ここに参加なさった一人一人の問題とは距離があるのは当然のことでですね,しかし,それに関しては私の立場に立たないものは日本事情に関わってはならないんだ,そういうことを申すつもりは全くございません。日本でも有名なドイツの教育思想家ルドルフ・シュタイナーが「私のいうことを信じる必要はない,ただ,私のいうことに耳を傾けてほしい」ということを書いています。今日は,そういう立場でお話をしたいという風に思っています。

今日は日本事情は何をどのように教えるのかということが一番大きなテーマになりますが,もう一つの隠されたテーマが「ことばと文化の統合」ということです。ですから,日本事情を考えるということは日本語教育の中で日本事情というものを引き受けるかという問題ですね。もちろん,日本事情というクラスをどう教えるか,どういう教科書を使うかということも重要ですけれども,それ以前の問題として日本語教育の中で日本事情というものは一体何なんだ,日本語教育というのは,日本事情を抱え込んで,あるいは抱え込まずに,どのように,どこへ,何をめざしていくのかと問うことが重要であると私は考えています。

1 言語教育における言語と文化を統合する立場

さて,前置きが長くなりましたけれども,具体的に日本事情の内容について入りたいと思います。

まず,日本事情という用語ですけれども,研究によれば戦前からすでにあったことが指摘されていますが,実際に日本語教育の現場で使われはじめるのは1960年代の初めからなんです。昭和でいうと30年代なりますね。これは文部省令としての文書の中に,「日本事情」という用語が使われたことからはじまります。これが日本全国の大学学長宛に伝達され,さらに国立大学の講座設置科目名の一つとして「日本語・日本事情」といういう名称が使われることで一般に普及しました。それからすでに随分の時間が経っているわけですけれども,いまだに日本事情とは何かということについて明快な答えが出ているわけではないというのが現状でしょう。

私としてはこの日本事情とは何かという問題について実践しながら考えるという仕事を17-8年やって来たわけですけれども,日本事情を定義することは日本語教育全体を定義していかないと決着の付かない問題だと考えております。つまり,日本語教育の中で文化の問題をどう位置づけるかというところで議論をしないかぎり「日本事情」の問題は解決しないだろうというが私の立場なんです。

今日の発表のレジュメ [PDF:50kb]は白い紙の裏表一枚を用意しました。このレジュメが実際の話のほぼ筋道です。OHPを使うかパワーポイントを使うか悩んだんですが,きわめて伝統的なものにしました。フランスの,ある教育学者のことばなんですが,「形式は伝統,内容は革新」というのを私のキャッチフレーズとしたいと思いますので(笑),どうぞよろしくお願いします。

それから,もう一つ裏表のもので日本語のものと英語バージョンのもの [PDF:31kb]があります。これは日本事情と日本語教育の関係について考えながら,両者の位置づけを私なりに試みたものです。で,日本語バージョンを見てくださっても結構ですし,英語バージョンを見てくださっても構いませんが,まずここから入りたいと思います。

このように,私の考えている全体の枠組みをまずお話しし,その次にこれに基づいた具体的な授業教室活動の私の設計を話し,それから10分位と思いますが,その実践としての授業の一部をちょっと見ていただいて,その後,日本語教育は何をめざしていくのかということについて,現在の私の理念プランをお示ししたいと思っております。限られた時間内ですが,皆さんのご意見をぜひいただきたいと思いますので,これもまたよろしくお願いします。

1-1 文化Aの立場

“「言語」と「文化」の捉え方と「総合活動型日本語教育」の概念プラン”[PDF:54KB]という1枚裏表のものからはじめたいと思います。

さまざまな言語教育には,それぞれの立場というものがあります。言語をどう捉えるか,文化をどう捉えるか,その教育はなぜ行われるのか,そして,教育の対象は何か,方法はどのようなものか,それから,言語と文化ですから文化にとって言語とは何か,言語にとって文化とは何か,媒介語を使うか使わないか,教材はどうするんだとか,教室の形態はとか,あるいは,それに姿勢と言いましょうか,態度そういうもの,それを分類して名前を付けるとどうなるのかとか,今までどういう経験があるかとか,そういうことがポイントとして得られます。それをちょっと縦軸にして右と左に挙げました。そして,それを言語と文化という二つの面から両方に一番端という形になる言語Aおよび文化Aとして並べてあります。そして,さらにもう一つ中に入って言語Bおよび文化Bになります。で,真ん中にC,これが統合的立場としてのC,すなわち私の立場です。

そこで,文化の方から入りましょうか,文化Aの方を見ていただくと,右の端ですね,これは特にヨーロッパで行われているような日本学の立場です。で,つまり,日本という地域のある対象を捉えて,それを研究的な立場で考察するというものです。ですから,広い意味で日本研究あるいは日本学と呼ばれているのがあります。この文化Aというものが言語教育にとってどのような関係があるかという視点によって,言語Aの方を見ていただくと,例えば日本語という言語はこういう構造を持っているというようなことを説明する立場です。ですから,ここでは「は」と「が」の違いはどこにあるかとか,「てある」「ている」はどう使われるか,といった文法的な問題の説明をする,そうすると,なるほど日本語というのはこういう言語なのかと学習者は理解することができます。

ただ,一番大きな問題はそれをいくら教育されても,あるいは,その方法でいくら学習しても日本語という言語そのものを運用することはできないということです。これは日本語に限ったことではありません。例えば,日本の私の友人でドイツ語を大学で4年間習って,文章は辞書を引きながらならある程度読めるが,しかし一度も話したことがないという友人がいます。このように,ドイツ語はどんな言語であるかということが分っているけれども,ドイツ語を運用することはできないというケースが私たちの身の回りにはむしろ普通のこととしてあるでしょう。そうことが日本語の場合でも世界中で問題になっています。ここで問題なのは,むしろ教室担当者としての教師が自分の教室として何をめざすべきなのかという,その視点だろうと思います。ことばを理解するためには,まずその構造を知るべきだと考える立場はごく一般的にあります。だから,日本学の一部として日本語学を講ずるということは決して悪いこととは私も思いません。しかし,もし教室の目的が学習者のコミュニケーション能力獲得をめざすということであるならば,言語Aのような立場は大きな矛盾を抱えていることになります。多く言語Aの立場をとる時に,コミュニケーション能力の問題は横に置いておいて,日本語がどういう言語かということを解説する講義は,日本研究であったとしても,日本語教育と呼ぶには問題があると思います。コミュニケーション能力の獲得という意味で,両者には大きな溝がありますから。

1-2 言語Bの立場

次に,そのまま横にずれていただいて,言語Bを見てみましょう。言語Aに対して,ここでは明らかに知識として言語を教えるということからコミュニケーション能力をつけるというふうにフレームそのものが移っています。つまり,言語の目的は何かというと,やはり運用であると,運用とは何かというと理解と表現の往還関係であるということです。したがって,そういう理解と表現の往還関係,つまりコミュニケーション能力をここでつけていくことが必要だという立場が言語Bの立場だと思います。

ところが,ここで一つ問題があります。それはこの表の(1) 「言語の捉え方」が言語を集団社会における対人相互作用として捉え,その社会の言語を学習し運用できるようにすることが言語学習であるという立場をとることです。

これを考えていくと集団社会というコンセプトが一つのキーワードになります。というのは,表の(3) 番目の「目的」のところにある集団社会による言語の差異に注目し,その社会への理解・適応を図るためとあるわけですが,簡単に言うと,要するにソシュールがかつて定義したラングとしての社会制度としての言語というものを学習目的にしていることになります。そうすると,その言語は例えば何百時間やったら,何十の文法項目を覚える,何百時間やったら何十の単語が分り,文字も読み書きができるようになる,というように学習目標が設定され,その学習目的としての内容がきちんと煉瓦を積むようにして積み上げられていく。それは学習者にも示され,教師もそれを学習者に予備知識として与えつつ,その知識をどう運用させるかということに目標が置かれることになります。したがって,非常に簡単に言うならば,この学習の目標は語彙と文法を教えること,ということになります。しかし,それでは言語が使えないということは,これはもうAの反省から分っているのですから,これに場面的な状況が必要だということになります。だから,これだけの語彙でこれだけの文型を使うためにはどんな場面が必要だという考え方に至ります。例えば,第30課日本語学習テキストの内の第5課までには過去の表現とそれから例えば日常的な買い物等のみたいな場面がある。そうすると,この過去の表現,昨日何をしましたかというところで,身の回りの状況を説明させるような表現を使わせる場面を設定するということになります。たとえば,昨日は何をしましたか,朝起きて歯を磨きました,それから手を洗いました,それから洋服を着ました,というような。そうするとしかし,今度は日本語として自然でない,だから,複文を使った方がいい。手を洗って服を着てシャワーを浴びてと,どんどんつなげて(笑),ああ,ごめんなさい,シャワーを浴びて洋服を着る(笑)ですね,要するにそういう動詞をこうつなげていくというのは,子供のような表現になってしまうから,もう少し「て」形の使い方を学ばなければ,というようになるわけですが,ここに問題はないでしょうか。

つまり,こういう質問する教師の側が「あなたは昨日何をしましたか」と聞く時に,ここでは何を期待しているのでしょうか。それは先週教えた語彙がちゃんと入っているかどうか,入っているという表現は非常に職業的な用語だと思いますけれども,文法項目がちゃんと入っているかということを確認するためにそのような質問するわけです。だから,「昨日あなたは何をしましたか」と教師が聞いて,学習者が「昨日のことは覚えていません」と言ったらそれで終わりですね。ここでは今,きわめて単純化したレベルで言いましたので,ちょっと誤解を招くかも知れませんが,言語Bの立場はどうしてもそのようなところで止ってしまいます,止まらざるを得ないんです。それで,こうした状況を反転させて場面を中心にする立場を仮にとったとします。たとえば,郵便局に行って何かを自分の家族に荷物を送るべきということをしましょうか。そうすると,それはあたかも郵便局という具体的な場面での体験学習のように見えますけれども,たしかに一見そのように見えますけれども,結局は,そうした学習そのものが語彙や文型の知識を確認するために単にそういう場面に調整しているだけであって,決してその本人の体験学習になってないと私は考えるのです。以上,言語Bのところをもう少し詳しくみるといろいろな問題が立ち現れてきますが,一つ一つ検討するのはとても時間がかかりますので,その他は省略します。そして,私自身の問題として,今まで私が考えてきた言語教育というのは,この言語Bの立場にあったことを告白します。

1-3 文化Bの立場

そこで,今度は文化Bの方へ目を転じてみましょう。これは今までの日本研究的なものから,もう一歩進んで,もっとアクティブな日本,現在の日本を,というところに目を向けています。それは学習者が知りたいこと,学習者のニーズに合わせた問題を考えていこうということになっているのだと思いますけれども,それは言語A言語Bに変容したように,文化A文化Bに変容してきたわけです。もちろんこれはコミュニケーション能力を付けるという前提の基に文化と言語というのは相互に近寄ってきたというように考えることが出来るだろうと思います。で,もちろんだからと言って,文化Aの日本学が必要がないとか,そんなことは私は申し上げるつもりは全くございません。歴史学という分野,社会学という分野,人類学という分野,このように様々な分野があって,それはそこで学問領域として成立しているわけですから,それ自体を云々するということではありません。しかし,人がそれを学ぶということと,日本語の日本能力を付けるということにおいては,文化Aの立場だけではもはや対応できなくなっているということですね。したがって,そこが文化Bの立場にだんだん変容していくわけです。これは言語A言語Bに変容したのと同じ,つまり,コミュニケーションという能力ということがキーワードになると考えられます。

では,文化Bはどういう立場なのでしょうか。実は私も1994年までこの立場でおりました。1995・96年と迷いつづけて97年から私はこの文化Bの立場を捨てました。その理由はこれからお話しします。

文化Bの立場というのは相対社会的な立場で一般に言われているものですけれども,ここにあるように文化を集団社会における対人相互作用として捉え,その社会の人間の行動・思考の様式を学習することが「文化学習」であるとします。つまり,ここで典型的に言われるのは日本人の行動様式とは何か,日本人の思考様式,ものの考え方とは何かというものです。そして,ここでは現代の様々な事情や状況あるいは問題を提示することで,学習者にさまざまなことを考えさせる,というような教室が設定されるわけです。

しかし,ここに一つの大きな問題があると私は考えます。それは文化というものを集団の結果と捉える,集団社会の産物と捉えることです。これはもちろん文化とは何かというような問題を今,検討する時間はありません。ただ,簡単に言いますと,この文化Bの立場では,人間を集団社会の産物として捉えてしまうということなんです。たとえば,日本に来る留学生のほとんどがその動機として,まず日本語と日本文化を学びたいというんですね。そこで,日本文化って何ですかというと,日本人の考え方を知りたい,日本人の行動様式を知りたい,あるいは日本語を上達して日本人のように話したいというんです。そこでまた,その日本人はどういう日本人なのかと私は聞きます。そうすると,本人は大変戸惑った顔をします。

つまり,一体日本人とは何か,あるいは日本社会とは何かというその文化の線引きをですね,文化と文化のどこに線を引くのかということが非常に問題になるわけです。たとえば,現代の社会に関する情報は,テレビやインターネットその他メディアによって世界のどこにいても今やいくらでも手に入りますが,現代的な状況あるいはメディアによる様々な現象,それを知ることが日本事情を知ることであり,日本文化を教えることなのだと考えていいのだろうか,という問題なんです。ここに潜んでいるのは,日本人の行動様式や思考形態を教えようということで,私たちはどうも日本人という一括りの集団類型化ということを行っているのではないかと考えられるからなんです。そしてこのことは,先ほど言いました人と人とのコミュニケーションということを考えるとき,こうした集団類型化が及ぼしている弊害というのは計り知れないと恐ろしくなるんです。

1-4 言語と文化を統合する立場

そこで,私は文化B言語Bという立場から,さらにそれを完全に文化と言語を一つにするための統合的な立場を置きます。これが統合的立場としてのCです。それはどういうことかと申しますと,ここでは文化というものが社会に属するのではなく,個人に属するものだと考えます。ですから,これは個人能力的立場ということです。もちろん,集団としての社会を否定して,それはもう要らないというのではありません。ただ,見方が違うということです。ここでは文化を個人のものとし,「個の文化」という言い方をします。とくに,この「個の文化」は,個人の場面や状況に認識能力として象徴的に現われてくると考え,その能力こそが文化能力,つまり文化リテラシーであると定義します。したがって,ここでは,その個人が社会の中で他者としての個人との関係を取り結ぶ自体が文化学習なんだということに捉えることになります。

ですから,ここでは,社会の中の他者との対人相互関係を取り結ぶ能力を獲得させること,これが一番重要になります。簡単に言えば,社会の中で個人がどのように自己表現ができるか,ということなんです。以前は,これを自己実現と呼んでいましたが,自己実現というと,何か決められたきちんとした目標があって,それを達成することというイメージがありますよね。ここではそういう意味ではなくて,他者との関係を築き,自分の居場所を確認するということですから,あまり自己実現という言い方はふさわしくないように思うのです。つまり,自己表現とは,自分の居場所を確かめるというか,私はここにいてよかったな,私はここにいてハッピーなんだと,そういうようなことですね。この自己表現をサポートしていくこと,これが教室の仕事だと考えるわけです。このことは個人の文化能力を高め,それによって自己表現を促すこと,これが今日のお話のテーマである言語学習環境ということと繋がります。そして,その時に言語学習ということは,それはもう同時に文化学習なんだ,つまり,本物の言語学習というのは文化学習なしにはありえないんだということになるわけです。つくられたバーチャルリアリティー,仮想現実の中での,語彙や文型の学習は本当の言語活動ではないという前提に立つことになるわけです。

上智大学の吉田研作さんの使った比喩ですが,金魚鉢と大海という比較があります。今までの言語教育は,まず金魚鉢の中で育ててから大海の中で生きられるようにするという考え方だった。ところが,最初に金魚鉢に入れて大海での危険要素をすべて情報として与えておく,こういう発想そのものが大海で生きる力を奪い取ってしまうのではないかということなんです。そうすると,じゃその大海で生きられなくて金魚鉢でしか生きられない人はどうするんだという,こういう質問が必ず出るんです。でも,我々が生きるということは,すでに大海にいることなのではないか,逆に金魚鉢を想定すること自体が不自然なのではないか,こういう立場をとることになります。これは先程ベルリン自由大学副学長のブラウン先生のお話にもありました,母語と第二言語の統合という問題と重なりますけれども,母語であろうと第二言語であろうと,言語を使うということは常に大海の中で,つまり,本物の人間関係の中で言語活動を行うということ,コミュニケーション活動が出来るということ,それは言語学習であると同時に文化学習でもある,その意味で言語と文化は引き離すことが出来ないという,こういう考えです。そして,ここで最も重要なことは,学習者の考えていることをどう引き出すかということであって,既定の教材を一方向的に与えるという立場には立たないということになるのです。

このような立場が1900年代から,早いところでは倉地暁美が1980年代後半に書いています。これは非常に先進的な論文ですが,残念ながらその後倉地さんは日本語教育そのものとは大分距離を置いてしまっています。1990年代に入ってからそういうポジションを持った研究論文や実践が一つずつ出てきます。但し,これは理論としては分るけれども,実践としては非常に難しいということをいろいろな人が言っています。したがって,そこでどのような実践をするかということはまだ試行錯誤の中にあるという段階でしょう。私自身の実践もその例に漏れないわけです。ここまでが私の提案する総合活動型日本語教育の概略です。

双方向的なやり取りを最初にお約束しましたが,そう言いながら一人でしゃべってしまいました。ここまでの話で,ここで言っておかないと前に進めないと,あるいは今は目の前が真っ暗だという方がいらっしゃったら,ご質問いただければと思います。いかがでしょうか。

2 総合活動型日本語教育とは何か

2-1 位置づけ

まず,「日本語教育と日本事情-異文化を超える」という本です。これは,私が1994年,つまりまだ文化Bのポジションにいて悩んでいた当時,いろいろな人たちとディスカッションをしました。「月刊日本語」という雑誌に連載されたもので,今読み返してみると私の自分史のようになっていてとても恥ずかしいのですけど,貴重な記録でもあるという勧めもあって出版したものです。そして,それ以後の私の日本事情の実践に即して具体的な例を交えながらまとめたものです。本日の「生きた鳥を野に放つ教育理念」というサブタイトルは,この本の「あとがき」からとったものです。研究会のご厚意によって東京の出版社から取り寄せてくださいました。ご希望の方があれば今日の受付でお帰りにお求めになることが出来ます。それから,宣伝をしに来たわけじゃないんですが(笑),一応こういうわけの分らないことをやっているもんですから,きちんと説明するために,なるべくものを書くようにしているんですが,これは,さらに今お話しした「日本語教育と日本事情」をどう結ぶかという観点に立って,日本語教育の方にシフトしながら,じゃ,日本語教育全体は何をめざすのかというようなことを,1990年代からの言語文化教育史,日本語教育によってことばと文化がどのように教えられていたかというような歴史の観点を踏まえつつ,現代の日本語教育の在り方,それが何をめざしていくかというようなことを考えて,私なりの17~18年の成果を一応ひとくぎりを付けたのが「日本語教育は何をめざすか-言語文化活動の理論と実践」という本で,これはこの1月の末に出たばかりのものです。これも受付のところにありますので,ご興味があれば,どうぞ。

それでは,具体的な実践の問題についてお話ししたいと思います。

この総合活動型言語教育の位置づけですけれども,基本的には学習者一人一人が自分の何かを考えさせ,その考えていることを表現させる学習のことです。先程,教材はないと申し上げたんですが,ここでは,教材ではなく,むしろ教室素材と申し上げた方がいいかも知れないのですが,教室素材としては学習者の考えていることが教室素材になります。つまり,学習者は考えていることが一人一人全部違いますので,違ったものが教室の中に存在し,それをどうやって相互のやりとりによって交換し合うかというプロセスそのものが教材になるという考え方です。簡単に言えば,「ある一定の内容や構造を教授」するという方向から「学習者自身の(考えていること)をどのように引き出すか」という方向にこの教育そのものが変化し,先ほどの総合活動型日本語教育の理念によって,教材中心の読解型から学習者の自身の自己発信表現型というふうに教室活動のめざすものが変わることになります。

そのためには,学習者が主体的に表現しなければならない,そのためには何が必要かということも問題になります。当然そこでは,聞く・話す・読む・書くという,いわゆる四技能がフル稼動しなければならない,聞くだけ,読むだけ,話すだけではコミュニケーションにならない。それはつまり,四つの領域がすべて大車輪のように様々に複雑に絡み合って重層的に回転すること活性化すること,それがこの総合活動型の日本語学習なんだということです。そういう意味で,この四つを総合したという意味でも確かに総合なのですが,ただ四つを総合したから総合というのではなくて,さらにそれを先程のブラウン先生のお話にもあった全人格的な形のやりとりということが必要とされるということです。

2-2 具体的な対象と目標

さらに,これには具体的な目標をというものが必要なんです。郵便局に行って,自分の国に小包を送ってみましょう,そういうのではダメなんですね。自分の本当にやりたいことを提示してもらわなければならない。やりたいことがないという場合は,やりたいものがないのはなぜかという問題になるんですね。そういうことを,きちんとクラスの皆に宛てて,つまり一つの共同体の中でそれを提示してもらうということなんです。これが当面の具体的な対象と目標になるんです。それは,ただ好きなことを好きなようにやれという意味ではありません。教室という共同体の中で,自分の活動をどうメンバーに提示し,どのように議論していくか。この枠組みは,教室責任者としての担当者が提示すべきだと思います。

各自の具体的な対象と目標を前提として提示されることによって,その問題が発見され,次に解決されていくプロセスがあります。そして,最終的にその問題が何らかの形で収束を見ます。それは一人一人の学習者が納得する形で進行していくわけですから,当然,それにはある達成感が生じます。この達成感を期待するということがこの教室活動にはとても重要です。先程も申し上げましたけれども,それは教師が設定したバーチャルリアリティー・ゲームではなく,現実にその学習者自身が自分の明確な意思を持ち,それを確信する,そういう場としての言語学習の場,それをつくることが言語教育だということなんです。当然それは学習者一人一人の個の表現,つまり一人一人の表現を持つということに繋がります。つまり,みんなが同じことをしなければならないということではないですね,一人一人違っていていいんだと,違っていたら違っているということを表現した上で,当然のこととして他者と関わっていく。そこで,一つの達成感のあるような仕事をしようというのがこの教室活動のおおまかな枠組みです。私の場合はレポート集を作るという活動をしています。今,お回ししているのは,この秋2001年度の秋学期で行った最新のもので,この二月に出来上がったものです。「眠れない25人の「私」と熱い日本語」というタイトルがついていますけど,25人というのは一クラスの人数です。この25人の中の3分の1は昨年新しく立ち上げた大学院日本語教育研究科の学生が実習としてここに参加しています。ここで実習生は学習者と一緒にレポートを書くということを4ヶ月,15周にわたってやります。彼らのレポートも留学生と一緒に印刷されています。

こういうレポート集をとにかく学期の終わりに公開する,インターネットにのせる,世界中の人が見る。日本語学習している人達が注目するというような形にしますので,無責任に勝手なことを書くわけにはいかない。こうしたことは,学習者にとっては自分として責任のあるものを想定していかなければいけないことになります。これが当面の課題と目標です。内容は見ていただければわかるように,自分が今一番興味の持っていること,ただそれだけです。それについて書いていくという作業です。

2-3 問題発見解決学習の3つのポイント

以上が,総合活動型言語教育としての問題発見解決学習,これは今回のワークショップのテーマの一つになっています。この問題発見解決学習というところが重要なポイントです。この「レポートを書く」という活動には三つのポイントがあります。

  1. 「私」をくぐらせたテーマ設定→ ステレオタイプの剥ぎ取り
  2. インタビュー・原稿の推敲・クラス内ディスカッション・相互評価→ インターアクションと自己相対化
  3. 動機と結論の一貫性による他者説得の論理獲得→ 思考と表現の往還による言語活動の活性化

まず(1) 私をくぐらせたテーマであるということ。簡単に申しますと,対象を自分の問題として捉えるということです。誤解しないでいただきたいのですが,これは自分の私生活を語るということではありません。私も自分の私生活ではあまり語りたくないことがありますしね。もちろん,個人のプライバシーを侵害するものでもありません。ここで,「私をくぐらせる」ということは,対象を自分の問題として捉えること,つまり,一般論として語らないということです。例えば,日本が好きと言った時に,何で日本が好きかというと,日本で仕事がしたいんです。それじゃ,なぜ日本で就職がしたいですかというと,それは日本経済は発展しているからです,というような答えの場合,ここには,なぜ自分は日本が好きかという固有の問いがありませんね。すなわち対象を一般論としてしか捉えていないわけです。そうであれば,別にその人が書かなくてもいい問題でもあるわけです。日本経済の概説が知りたいなら,図書館にいくらでも参考書があるでしょう。学問,研究,何でもそうだと思いますが,結局,自分の問題としてそのテーマがきちんと把握されていないかぎりロクなものにはならないわけです。これはある意味ではアカデミック・ストラテジーに繋がることではないかと思います。ですから,ここでテーマを決める時には,私の問題として捉えるという姿勢が非常に重要だと考えています。

そして,(2) 番目にインターアクションが非常にこの教室では重要になります。インタビューであるとか,原稿の推敲,クラス内でのディスカッション,それから,最後に行う相互評価というような問題がそれです。これは一連のすべて連続的に行って続いていくものであって,すべてインターアクションとそれによる自己相対化というような問題に連続します。それから,もう一つは(3) 他者を納得させる論理ということ。社会における他者を説得し納得させるためにはどうしても論理が必要です。この意味は,ただ論理的であればいいというだけのことではなくて,他者を納得させることができるかどうか,他者との説得のために必要なのは,やはり他者と自己との共通の論理でしょう。その場合は,レポートとしての動機と結論の一貫性というものが問題になります。つまり,動機で述べているものと結論で言っていることが矛盾していては他者は納得しない,つまりいいレポートではないということです。もう少し深いところで考えると,この問題は,思考と表現の往還だというふうに考えることができます。つまり,考えていることと表現とをいかに往還させ,そこで,その言語活動,厳密にいうと言語文化活動ですが,その言語文化活動をいかに活性化させるかということがたいへん重要だと思います。ですから,自己の問題として捉える,それから,インターアクションを取り入れること,そして他者が納得する論理を,という三つがこの活動の大きな柱になります。

2-4 教室活動の問題点

こうした活動を総称して総合活動型日本語教育と私は呼んでいますが,総合活動型というと,いわば外側からみた活動の様子を言う時であり,質的な面でどんな活動をしているかというと,ある問題を発見し,解決していくか,つまり問題発見解決学習ということになります。自らがテーマを設定すること自体が問題の発見であり,それを自分の問題として他者とのインターアクションの中で解決していく作業ですね。

この問題でつねに話題になるのは,ルールブックが作りにくい,マニュアルが作りにくいということです。マニュアルを作ってしまうと,そのマニュアルを通れば楽にできるかというとそういうわけには行かないのが問題です。むしろ,一人一人の担当者が自分のポジションをしっかり持って,自分のポジションから発信していく,そういう姿勢が必要です。いわばマニュアルは一人一人のためにあるということになりますが,自分のマニュアルは自分でつくるしかないということになります。ですから活動の内容とか方法とか考え方がどんなものがあるかということは,もちろん今これから考えて行かなければいけないし,それも固定させるのではなくて,自分の問題としてそれを常に考えつづけていくという面では流動的なものないだという点です。そして,最後に重要なことは評価のことですね,つまり,点数を付けなければけないことをどうするかという現実問題なんです。これを評価というものを何か客観的なものによって,それに預けるという評価をせず,あくまでも,一人一人が自分の判断,自分の基準をしっかり持って,その合意を形成していくということです。やや分かりにくいかもしれませんが,担当者は評価についての権限を放棄するということも考えられます。そういう過激な評価方法ですが,それを私は「合意形成としての評価」と呼びたいと思っています。つまり,評価は客観的でならなければならないという思い込みがが教室の活性化を妨げているというのが私の立場です。この場合の客観的というのは,とにかく数値化して,それをもとに学習者を序列化しようという考え方を指しています。評価というものは,常に主観的なものでしかない,その主観的なものなんだけれども,合意形成をすることによって,我々は納得し合うことができるし,そこで合意によってそのクラスを共同体としての達成感も得られるのだというのが私の考えです。

以上,私の提案する総合活動型日本語教育の,本当に一部分をご紹介しました。これから,ビデオも見ていただいて,存分のご指摘をいただきたいと思っています。

Q:ちょっと質問があるんですが,よろしいでしょうか。合意形成としての評価とおっしゃったんですけれども,主観的な評価というのは,具体的にどういうふうにするのでしょうか。

A:一人一人がそれぞれのレポート作成に対して評価を下すということです。

Q:一人一人というのは?

A:学習者です。

Q:学習者が?

A:はい,担当者も含めてでも構わないですが。

Q:自分が書いたレポートに自分が評価をすることもありますか

A:はい,もちろんします。それから,他者,他人の書いたものについても評価します。たとえば,15人の学習者がいたとして,15人の学習者の全員がそれぞれの書いたレポートについて評価をします。同時に自分も自分が書いたレポートについて評価をします。この方法を私は相互自己評価というんですが,それから集まるわけですから,15×15という評価が出てくるわけですね。

Q:評価のあんばいというのはあるんですか?

A:基準ということですか?基準の大きな柱になるのは,先ほど申しました(1) (2) (3) の,自己の問題として捉えているか,インターアクションの成果を十分に活かしているか,それから動機と結論の一貫性によって他者を納得させることが出来ているかどうか,その三つです。それが評価の基準です。

Q:いや,点数に。

A:ですから,それは10点でやってもいいし,5点でやってもいいし,それは,その時にいくらでも十分に調整できます。

Q:いや,あの,その人の能力としてわかることはなんですか?

A:そういう,その場合の能力というのは単にいわゆる正しい日本語,文法的な間違いはとか,語彙は多いのかということではありません。ここではあくまでもプロセスおよび最終的な作品として提出されたものを各自が評価するということです。このことは授業が始まる最初のところで説明しますけれども。私のクラスの場合は留学生ですから,例えば,まず,きちんと最後までレポートを書くこと,それから指定の枚数を超えること,それから,レポートそのものを途中で放り出さないで完成していくこと,そして,最後の評価,相互評価会というんですけれども,その相互評価会に必ず出席してみんなに提示すること,この三つをこの項目を完成したら全員に80点をもらえますということを,一番最初に説明します。

こういうふうに机の上でいくら熱弁を振るっても,なかなかご理解いただけないと思って,ほんの少しですがビデオを見ていただきます。それで,雰囲気だけでもつかんでいただければ幸いです。

時間がありませんので簡単に説明しますと,要するに上級の準上級ですね,早稲田大学の日本語教育センターの場合は1から8までレベルがあり,1はゼロで,8は上級と呼んでいます。これは7の段階の学生です。8の段階の学生はもう学部の講義が聞けるというレベルですから,7だとそれにちょっと至らないというレベルだと考えてください。それから,今出てくるのは韓国人のある学生が「奨学金と私」というレポートを書き始めようとしている,そして,なぜ奨学金と私というレポートを書くのかについて説明している,つまり動機づくりをしている場面です。それに対して,他の学生がいろんなことを言っているそういう場面です。日本人ボランティアの学生も混じっています。

ビデオ視聴(1999年春実践のビデオを見る,約10分)

3 言語都市設計者としての役割

こうした実践については,次のような批判をしばしば受けます。一つは,早稲田大学には優秀な学生が集まっているから。もう一つは,上級だから。それから,先程ご質問もあった評価の問題。つまり,評価は具体的にどのようにできるのかイメージが湧きにくいというものです。

このテープには続きがあり,この後,中級クラスの相互自己評価の場面,それから初級クラスでこれと似た方法を展開するものです。この二つを用意しています。ここでは,時間の関係でお見せできませんので,ワークショップのはじめに見ていただきたいと思います。初級に関しては,教室活動としてではなく一つのアプローチとして示しただけですけれども,基本的な考え方としては決して不可能ではないということです。たとえば,「こんにちは,細川です」という自己紹介の段階から,もう十分この総合的な日本語活動は始めることができるだろうということです。今はビデオの内容についてみなさんのご意見をいただく時間がないので,ワークショップの方で存分に意見を出していただければと思います。

最後に,私の考えていることを簡単にまとめます。まず,こうした言語教育というのは一体なにをめざすのかというと,コミュニケーションにおけるこころとことば,これを獲得させることだということです。先程の述べました,全人格的な言語コミュニケーションということです。

もう一つは言語教育における教室活動のあり方です。私は言語教育における教室活動とは,言語コミュニケーションによって実際に自分の目の前にいる他者との関係を見直す作業だと考えています。その場合に,集団類型的文化観をいかに超えるかということ。そのことは,対象と自分との関係を考えることであり,すなわち自己相対化の問題と繋がります。なぜなら,他者を説得するために,他者への説得のための自分の立場,自分のポジションというものを確立しなければならない。もちろんそれは固定的なものでななくて,かなり流動的なものです。しかし,私が私の立場を語らなければ,他者も語ってはくれないのです。ですから,今日,私が私のポジションを話しているのも,他者としての皆さんとのインターアクションを願うことによってのことです。そして,それが結局は他者との共生,そういうことに結び付くと私は考えています。

そして,最終的には,教室という空間を言語都市と見立て,その言語都市としての環境をどのようにつくっていくかということ,つまり言語都市設計者としての自覚が担当者に求められると思います。そのためには文化の境界というものを,特定の国家とか地域とかのところで求めずに,いわば世界中どんなところでも暮らすことが出来るというとやや比喩的な言い方ですけれども,そうした状況に対応することが出来る強固で柔軟なアイデンティティーが必要だというのが私の考え方です。

これはもう最後になりますけれども,こういうことを考えていくためには,実践から研究へ,つまり,既成の研究を何か実践に応用するという立場ではなくて,自分の実践の中のさまざまな発見や疑問から実践への問題意識を持つことからはじめ,その研究を軸にさらに自分の新しい実践へと展開していくというような実践,それが出発点であると私は考えます。ですから,教室活動というのはどこかの教室のいいとこ取りをするのではなく,やはり自分にしか出来ない教室活動をめざすべきだろうと思います。このように考えていくと最後に,これは本当に一番最後ですが,日本語教育というものは日本語学の応用分野であるという考え方は捨てていくべきだろうと考えます。むしろ日本語教育とは教育学の一分野であると思いからです。教育学とは例えば教育哲学とか社会教育学とかの領域がありますが,その中で言語教育学というのを位置づけ,その中に日本語なら日本語教育学というものがある,そしてそれは母語を対象とする場合と,第二言語を対象とする場合の二つがある。ただ,その分かれ目は決してあの固定的なものではなく,きわめて流動的なものであるというのが現在の私の立場です。

ちょうど時間になりましたので,これで最初の報告を終わらせていただきます。大急ぎの展開で十分に私の考えていることが伝えていたかどうか本当に不安ですけれども,これで終わらせていただきます。(拍手)

関連文献

  • 細川英雄 『日本語教育と日本事情-異文化を超えて』(明石書店,1999)
  • 細川英雄 『日本語教育は何をめざすか-言語文化活動の理論と実践』(明石書店,2002)
  • 細川英雄 『「総合」の考え方と方法』(早稲田大学日本語研究教育センター,2002)
  • 吉田研作 『外国人とわかりあう英語-異文化の壁を超えて』(筑摩書房,1995)

本稿は,2002年3月22日にドイツ・ベルリン日独センターで行われたドイツ語圏大学日本語教育研究会(テーマは「グローバル化時代の日本語教育・日本事情教育―理論と実践」)での基調講演「言語学習環境論―生きた鳥を野に放つ教育理念」の原稿と記録をもとにしたものである。ご招待くださったドイツ語圏大学日本語教育研究会および山田頼子会長に深甚の謝意を表したい。