八ヶ岳アカデメイア――世界各地での実践・講演:2002年3月:ドイツ語圏日本語教育研究会シンポジウム
フランス日本語教育日誌 / 細川英雄
2002年3月11日(月)
成田21:55発エール・フランス273便,定刻に出発。
出発前の大忙しで,書類の記録を入れたフロッピィを研究室に忘れ,タクシーで取りに帰る一幕もあったが,無事,ボーイング機は離陸。エール・フランスのサービスは年々悪くなる。深夜便のせいか,ほとんどが男性乗務員で,いたるところに日本語が記述され,エコノミー席からはテレビの画面もよく見えず(これは老眼のため)。機内では,ひたすら寝る。わずかに金窪周作『恋するオペラ』(集英社新書)を読む。何となくうきうきするような気分になれる本。
3月12日(火)
04:25 パリCDG空港,定刻着。パリ着。一昨年の10月以来,の訪問。
早朝のため,モンパルナス行きのリムジンバスが7時までなく,仕方なくタクシーに乗る。深夜料金を取られるも,古いフランの交換方法を聞き出すなど,収穫はあり。
6時前にホテルにつき,眠い目をこする留守番の青年に荷物を預けて,キャフオレ(大)の朝食。パリのキャフェは6時から開店している!
地下鉄エドガーキネの駅で,1週間のオレンジカードを買い,95番のバスでルーブルへ。あたりを散歩したあと,タクシーの運ちゃんにきいた,古いお金の交換の実現のために,Banque de France に行く。ちょうど日銀のようなところで,8時45分開店。列に並んで,身体検査を受け,手持ちの500フランを交換。今はもうここでなければフランス・フランは交換してくれないとのこと。75ユーロになる。
朝のパリは摂氏10度,思ったほど寒くはない。どんよりと曇って,小雨が降っている。コートの帽子をかぶり,雨の中を歩く。ルーブル美術館の前のエニシダが美しい。
昼食前に,一度ホテルに帰り,荷物の整理。アンドレより手紙の言付け。今回の仕事およびその周辺の人々に電話。ロビーでインターネットが読めるため,重宝。手持ちのPCを電話につなごうとしたが,差込の形が違い,できず。また,フロッピィのファイルもそのままでは送れない。ホテルのご亭主に一度僕のメールに送ってもらい,それを僕から転送する方法を取ることにする。インターネットで見つけた安宿ながら,夫婦でやっている,サンパティックで清潔なホテル。takamiその他関係者に当座のメールを送る。ただし,日本語は使えず。
昼食は,近所のキャフェのスタンドで定食皿。新しい店のようで,若い女性がきびきび働いている。久しぶりにパリの暮らしを思い出す。食べて話して,そして仕事をするという生活のリズム。東京の仕事は忙しくていけない。
昼食後,またホテルに帰り,ちょっと昼寝。原稿の残りと日記を書いてシャワーを浴びてから,夕刻より散歩。フナックにてカセットテープ,イノで石鹸その他を買う。フナックでは従業員のスト,モンパルナス駅前通りは,医療関係者のデモで混雑している。フランスのストやデモはいつ見ても楽しい(失礼!)。夕食は,ホテル近くの中華レストランにて,右隣にフランス人の若者4人,左隣にドイツ人のカップル,向かいにアメリカ人の旅行者数人がいて,店の人たちは中国語でやり取りしている。こういうのを“国際的”というのだろうか。ごくあたりまえのパリの日常。
夜,ダニエルとヴェロニック・ペランよりホテルに電話あり。ダニエルとは日曜日にマリジュヌビエーブと3人で昼食をすることになる。ヴェロニックとは,金曜日の昼。その後,エレーヌに電話,明日のリール行きのことなど確認。また,ソノコ・ラファエルにも電話,木曜日昼にラジオカセットを借りる約束。11時ごろ,日記をつけて寝る。
3月13日(水)
曇り,ときどき雨。
7:00起床。ホテルで朝食のあと,8:55に北駅からアンドレの用意してくれた切符でリール・フランドルへTGVに乗る。10:00に駅にてアンドレ・ヴロダルチックおよび九州大学3名の方々それからガイド役の小山君(リール大学DEA在籍)と会う。アンドレは講義のため,大学に戻り,他の5人は午前中,市内見学。VIEU LILLEを少し歩いた後,伯爵夫人の修道院博物館を見学。昼少し前から,市美術館近くにてムール貝とビール(レフ)の昼食。
昼食後,九州の3人とわかれ,小山君と地下鉄に。地下鉄駅前にて小山君と別れ,PONT DE BOISでアンドレと待ち合わせ。教職員食堂にてコーヒーを飲む。日本語スタッフのノリコさんとも話す。
14:00より15:30までクラスで話をする。タイトルは,「日本語教育におけることばと文化」。日本語のレジュメをもとになんとか説明したが,やはり思うようにことばが届かない。かなりアンドレに助けられながら,時間を消化するも,テーマそのものが,日本語を習い始めた学生たちにはややむずかしいようだ。日本への留学経験もある学生がいて,16:30ごろまで時間を延長して話し込む。机の配置を円くしたのは好評だった。最後は,日本語環境をどうやって作るかという話題になり,インターネットの話になって終わる。
ノリコさんとご主人の車で,リール駅まで送ってもらい,18:00の列車でアンドレと一緒にパリへ。車中,リール大学への転出の経緯その他,いろいろの話を聞く。地下鉄でドメニールに出て,アンドレの自宅に。アンドレが九州の3人を迎えに行っている間に,エレーヌと少し話す。ステファンは,歴史・地理のアグレガシオンとキャペスの試験を受けているとのこと。20:00頃から3人を交えて夕食。3人ともコンピュータサイエンスが専門。大切なことは,ことばの構造そのものではなく,そのことばを操る人間の認識のあり方であるという点で意見が一致。とくに遠藤さんがこういう議論を日常的にもっと学生たちとしなければと言ったのが印象的。12:00過ぎ,だいぶ眠くなってお開き。アンドレの車で,宿まで送ってもらい,再会を約して就寝。
3月14日(木)
曇り,時々雨。後,晴れ,夜半から雨と風。
8:00過ぎ起床。明け方に目がさめ,今ごろになって時差を実感。朝食のあとインターネットでメール確認。凡人社からのメールに返信。
午前中は,原稿の整理と日記。到着した日にルーブルの近くの裏通りの宝石店でtakamiへのお土産を見つけたので,早めにホテルを出て,散歩がてら店による。40センチ希望だったので,そのことを言うと,それでは短すぎると店主のマダム。結局特注にすると,一週間以上かかるとのことで,今回はやめ。そのままポルト・マイヨ近くのソノコ・ラファエルの事務所に行く。事務所の近くのビストロで3人一緒に食事。ラファエルは7月からバリ島のconsul領事として最低5年間かの地に住むとのこと。ソワッソンの家のことなど話す。カセットレコーダを借り,月曜日に返す約束。
バスでシャンペレに出てから,乗り換えてモンパルナスのホテルに戻り,ちょっと休んでから,CNRSの研究会へ。リールであったコンピュータサイエンスの岡田さん(九州工業大学)の話。「心と言語―人工知能」というタイトルで,コンピュータに載せるための考え方の基本的な解説で,初学者にもわかりやすく,とくに認識・推論・表出という構造の説明は,僕の理論とも重なりが多く,分野の違いを超えた問題として感動的。これからの研究への大いなる示唆となる。会場で行き合わせたパリ7大の大島弘子さんに作文プロジェクトの話をする。具体的になったら,いつでも相談してほしいとのこと。これで9月の計画はうまく運ぶかも。19:00過ぎまで議論があって,一向はアンドレの待つコレージュドフランスへ。クロード・アジェージュのセミナーとの話だったが,カトリーヌと千秋さんとの夕食の約束のため,これは失礼する。
19:30より3人で食事。交流基金のヨシエさんは他の約束があってこられず(日曜日に会うことになる)。レストランはちょっとうるさくて,外国人がいっぱい。早めに切り上げて,ルクサンブール公園の前のロスタンでコーヒー。カトリーヌは相変わらず。千秋さんはフランス語も上達し,とても元気そう。ゆくゆくは友達とパリで会社を立ち上げたいとか。
10:00過ぎから突然の雨と強風。11:00ごろ,帰宅。マリテからのメッセージあり,電話をして話し込む。土曜日にジャンとブロカント(古物市)に行くことになり,その帰りにパリの自宅に招ばれる。ルマン行きは,19日朝10:00モンパルナス発。明快な説明,溢れる友情,交流する連帯。12:00頃,シャワーを浴びて就寝。
3月15日(金)
朝,曇り,ときどき晴れ,俄か雨あり。
7:00過ぎ起床。朝食の後は,E-mailのチェックと原稿と日記。ラジオを聴きながらの作業は楽しい。10:00少し前にホテルを出る。
takamiに頼まれたディドロのプレイヤド本と,以前から気になっていたパスカルの全集を20%引きでサンミッシェルのジベールで購入。そのままカルジナル・リモワンヌ駅前にてベロニック・ペランに会う。イザベル・ブロッソさんも一緒。ベロニックは,数年前まで早稲田の政経でフランス語を教えていた人で,今はエコール・ノルマルで日本語を教えている。イザベルは,この4月からベロニックの後任として政経でフランス語を教える。
近くのトルコ料理レストランにて食事。ベロニックのおごり。その後,店を代えてコーヒー。20:30からアラブの歌と踊りのコンサートがあるからこないかと誘われ,行くことにする。ベロニックの同室のアラブ研究者の企画とのこと。その前に,翻訳クラスの見学の約束。
19:30過ぎに,ウルム通りのエコール・ノルマル・シュペリユールに行く。翻訳クラスは,中島敦『山月記』を1行ずつフランス語に訳す作業。学生は,日本人3人,フランス人1名で,フランス人は中国の知識もある人のよう。いつもはもう少し人数が多いという。みなエコールノルマルの学生(もと学生を含む)で,相当高いフランス語能力があり,議論の内容のレベルも高い。原文のリズムや格調を残したいというベロニック。僕の教室活動とはかなり距離のあるものだが,大変な力量を要求される仕事だ。かつてINALCOでガルニエさんの古典翻訳クラスに出たときのことを思い出す。クラスは,20:30前まで続いて終了。
ベロニックの研究室によってから,地下のホールで21:00ごろよりのアラブの歌と踊りのコンサート。アラブの伝統的な祈りの歌と踊りで,大変迫力のある,すばらしいコンサート。以前聴いた高野山の真言密教のリズムによく似ていると感じる。アンサンブル・アル-キンジという楽団で,すでに世界中で公演が行われているという。12:00近くに終了,入口でCDを買う。
何も食べていなかったので,ベロニックたちとサンミッシュルまで歩いて,夜食。武蔵野美術大学の三浦均さんとその学生さん,ボザールの不思議な言語生活のお嬢さんとINALCOドクトラのアンドレアさんも一緒。アンドレアさんは和歌が専門で国文学研究資料館に3年留学していたとのこと。深夜,タクシーにて帰宅。マリテのジヤンから明日9:30に来てほしいとのメッセージあり。就寝は2時少し前。
3月16日(土)
晴れ。
8:00過ぎに起床。明け方に目がさめたため,多少寝不足気味。ジャンに電話をすると,マリテが出て,これから出かけるが,ジャンが待っているからとのこと。夕食には戻るので,自宅に来るように誘われる。
9:30過ぎにブレザン通りのジャン宅へ。結局,二人でパリ郊外CHATOUのブロカント(古物市)に行くことになり,ジャンの車でCHATOUへ。このブロカントは,春と秋の2回行われるもので,以前にも一度,ジャンと行ったことがある。途中,EMMAUSに寄り,一度,道に迷うが,11:00前に着く。駐車場から会場間での間のセーヌ沿いに船の修理工房があり,立ち止まって作業を見る。古いモーターボートを修復しているが,モーターの型が古くて使えない,ツナギの作業着を着た主人が残念そうに言う。するとジャンが,国道沿いにそうした古いエンジン専門のガレージがあると言い,ツナギ氏は大喜び。メモに僕のボールペンを貸すと,さっそく紙にガレージの場所をメモする。事前に連絡したほうがいいよ,とジャンが言い,握手をして分かれる。ほほえましいコミュニケーション。ブロカント会場に入り,木製の自転車があり,ジャンは痛く感動する。ALLIANCE FRANCAISEの絵をマリテのために買い,そのあと,一めぐりしてから,串焼きとフライドポテト,ビールの昼食。天気がよくて,楽しい散歩になる。帰り際に,ジャンは鳥の水飲みとチーズパンを買う。水飲みはブレザンのテラスに置くのだそう。チーズパンを食べながらの帰り道,パンの耳をセーヌに捨てたら鳥がくるか魚がくるかが議論になり,結局,実際に水に捨てたら,反対側の岸からめざとく水鳥が見つけてパンの耳を食べにきた。
その後,フランス社会を垣間見てみようというジャンの提案で,彼の母親を郊外の老人の家に訪ねる。いつもは毎日曜日に行くのだそう。近くまできたので,ちょっと寄ってみようという。一度また道を間違えるが,3:00過ぎには到着。91歳になるという彼の母親は,もうだいぶ前からここにいて,最近,転んで腰を骨折し,ほとんど歩けないという。ジャンと兄でこのように時々会いにくるという。大きなベッドのある,トイレつきの一人部屋で,食事は食堂へ行くという。マリテの研究仲間であると紹介され,近くのルノーの会社にいる日本人のことが話題になる。途中で,別の部屋の夫人がお茶に誘いに来るが,僕たちと一緒に別棟までお茶を飲みに行くからと言って断る。赤い肩掛けを羽織り,ステッキとを持って,部屋を出る。ジャンが手を取ろうとすると,一人で歩くのが好きだといって,ゆっくり歩きはじめる。廊下でレストランはどこかと聞く老婦人に会い,集会室のようなところに連れて行く。レストランと集会室を間違えるなんて,あの人,やっぱりボケね,と言って僕を見た。
芝生を隔てた反対側の建物まで3人で歩き,自動販売機のコーヒーとココアを飲みながら30分ほど話す。師範学校を出て,高校の理科の教師をしていたこと,自分にとって日本は遠い国だと言う。フランスにきた理由を問われ,僕の仕事の話をすると,そんなに忙しいときによく会いにきてくれたと丁寧におれいを言われた。僕の娘の話になり,ジャンがフランスでのホームステイの話や日本で空港に迎えに来てくれたという話をすると,こんなおばあちゃんだけど,そんな素敵なお嬢さんだったら一度会いたい,と言う。その後,家族の話になって,数年前に結婚したアリス(マリテとジャンの長女)の婿が会いに来てくれたことをうれしそうに話す。孫のアントワーヌ(長男)がDEA(博士課程)の地理の勉強にうんざりしているという話を聞くと,でも,その勉強を選んだのは彼なんでしょ,それなら,どうするか決定するのはすべて彼の責任でしょ,と毅然として言う。20年前に亡くなった祖母の面影を見る。
帰り際に,車まで送るからといって,駐車場まで歩いてきてくれる。寮費を自分で払うから,と言い,それから,紅茶がなくなったので,今度来るときに持ってきてほしいとジャンに頼んでいる。まだ税金の計算が終わっていなくて日曜日にはこられないから,水曜日にまた来る,紅茶はそのときに持ってくるよ,寮費のことはいつもと同じだから心配しないように,とジャンが答えている。
年金があるため,通常の寮生活は問題ないが,もし動けなくなれば,その分費用がかかり,それは家族で負担しなければならない,24時間看護ということだと家族の負担は相当なものだという。もしそういうことになり,家族がその負担に耐えられなくなれば,さあ後はわからない,これがフランス社会さ,とジャンが言う。
ホテルの前まで車で送ってもらい,部屋で荷物の整理と一休みをし,20:00過ぎにまたブレザンの自宅に行く。アントワーヌと恋人のイザベルがいて,5人でアペリティフ。アントワーヌのDEAうんざりを聞く。大学で習うことが机上の空論ばかりで,刺激がない,という。イザベルは演劇の仕事をしているとのこと。アントワーヌはこれからレピュブリックのバーにアルバイトに行くとのことで,夕食は3人ではじめる。
ヨーグルトサラダ,コキーユ・サンジャックの食事をしながら,なぜ肉を食べないかということから始まり,いろいろな黴菌とどのように共生するかという話になり,ブルターニュに住むコロンビア人のアマゾンの森との共生に話題がすすむ。そこで日常における他者性との共生に注目することの意味を僕が指摘し,森の生活と街での生活との違いも問題となる。社会性とは何か,という議論が食後のチザンヌが出るまで続く。
チザンヌを飲みながら,言語学習の教室活動の意味について議論になり,ジャンは退屈して,どこかに行ってしまう。12:00に辞し,地下鉄でホテルへ帰る。帰り際にジャンが木工芸術の本とCHATOUで買ったチーズパンの残りをくれる。1:00過ぎに就寝。
3月17日(日)
曇り,のち晴れ。
7:00過ぎ起床。朝食時にインターネットを見るも,バランスが悪くて接続できず。午前中は部屋にて日記と原稿。
12:00,ベルサイユのダニエルがホテルに迎えに来る。はじめの約束では,マリジュヌビエーブと3人で,モンパルナス近くでお昼を食べようということだったが,迎えにきたダニエルの話では,昨日,ジャンマリ(マリジュヌビエーブの弟,83年以来の旧知)と連絡がつき,一緒にどこかに行こうということになったという。ただし,ジャンマリは,シェネに住むジャンヌ(マリジュヌビエーブとジャンマリの母親)と昼食をするために,われわれはまずベルサイユの家で昼食を取り,それから,ジャンマリを迎えに行って,その後行動を一緒にすることになった。
マリジュヌビエーブは,パリ・オルセ大学の理科教育の教員だが,今年度で退職するという。そのための,さまざまな企画の収束で,かなり忙しいという。takamiから預かった籐製の花挿しがお土産。昼食後,ジャンマリに電話し,ダニエルの運転でジャンヌの家に迎えに行く。96年にブルゴーヌにある彼女の別荘で一夏を過ごした記憶はまだ新しい。たしか90歳近いと思う。最近,転んで腕を骨折したそうだが,久しぶりに会った感じは,相変わらず元気だ。かつては母親とあまりうまくいかないことが多いといっていたジャンマリが,彼女の家に昼食を取りに来るというのも,よくわかる気がする。昨日のジャンといい,ジャンマリといい,老いた母親に対して,心のどこかでとても優しくなっている。
ベルサイユの家でコーヒーを飲んだあと,4人でブルトイユの城の見学に行く。お城までは車で30分ほど,17世紀のはじめに建てられたブルトイユ男爵のお城で,現在は,その後継が管理にあたっている。1時間ほど,ガイドについて説明を聞いた後,城内の庭を散策。「長靴を履いた猫」で有名なペローが初代男爵と交友があり,いろいろな童話をこのお城滞在中に書いたという。プルーストもかつてこのお城に滞在したという。寒がりのプルーストが愛用した湯たんぽも陳列されていた。
マリジュヌビエーブが,急ぎの校正のため,大学の研究室に行かなければならず,RERソー線のオルセ・ヴィル駅で降ろしてもらい,パリに帰る。ジャンマリは,今年は今までの仕事をまとめ,400種類以上の銀器コレクションの大きなカタログを執筆中という。生業は骨董商だが,これからは研究の方に傾くことになるだろうとのこと。今は研究休暇だから,と笑う。日本語がわかるので,僕の新著をプレゼントし,お互いの仕事の将来を祝して分かれる。
19:00過ぎに一度ホテルに帰り,すぐに交流基金の根来よしえさんと待ち合わせのモベール・ミチュアリテに。日曜日のため,レストランが休みで,サンミッチェルまで歩き,近くのアジア・レストランに入る。パリの二つの高校で日本語を教えていて,教室運営についていろいろ考えるところが多いという。学芸大出身で,かつて僕の研究室に来ていた脇由美子さんと同期でINALCOに来ていたとか。カトリーヌとの日本語の勉強も続いているとのこと。過日行われた交流基金の巡回セミナーについて話を聞く。早稲田の同僚の蒲谷さんのセミナーはなかなか好評だったようだ。高校の教室運営の問題も含めて,言語の別を超えた言語教室運営のあり方についてとても興味を示してくれる。「21世紀の日本事情」など,手持ちの資料を引き取ってもらう。ルクサンブール入口のロスタンにてコーヒー。12:00過ぎ帰宿。
3月18日(月)
曇り,のち雨。
7:00過ぎ起床。インターネットは相変わらず治らず。朝食後,日記と原稿。とくに明日のルマンでの原稿の調整。10時過ぎに一応目処がついたので,サンラザールのジット・センターに出かける。ガイドブックによれば,30キロ北にグループのジットがあることがわかったので,下見を兼ねて出かけることにする。 はじめは簡単に行くと思ったが北駅からの乗換えが結構手間取り,結局2回乗り換えて1時過ぎにヴィアルム駅につく。
ひどい雨のなか,駅でタクシーの番号を聞き,5件ほど電話をするもみな断られ,仕方なく目的のジットに直接電話したところ,主人が出かけていて車がないので迎えにいけないとのことだったが,親切なマダムで駅の近くの別のジットを教えてくれた。道を探すのにやや苦労したが,とにかく行き着いて案内を請うも,主人はいず,留守番の人が案内してくれる。ポーランド人のフランス語の先生グループが研修のために毎年おとずれるとのこと。ジットとしての環境はあまりよくないため,適当に説明を聞いて帰る。帰りは道にも迷わず,4時過ぎに北駅着。
久しぶりに夜があいたので,ジャンが勧めてくれた「フロンフロン」という演劇を観にいくが,列をなしていて入れず,エドガーキネの近くで「エレベーターのウイークエンド」という演劇を観る。4人の男女の登場する,サスペンスタッチのコメディで,ふんだんに出てくる洒落がおもしろい。
ホテル前の中華レストランにて夕食。帰宿後,日記と原稿。12:00過ぎ就寝。
3月19日(火)
曇り。
10:00少し前にモンパルナスのホームにてマリテと待ち合わせ。10:00発ナント行きTGV。車中,日本語を勉強した後,FLEの修士に入った男性について話題になり,直接メールを送ってもらうように言う。また,学生の交換についても話題になる。言語の別を超えた方法論を考えようとする学生に日本語を学ばせるのもいいとマリテは言う。近い言語,遠い言語のそれぞれの習得を考えるプログラムもあるとか。結局はお金の問題になるので,いろいろな点について大学に確認することを約束。その後,基金の根来さんの件,話題にする。高校レベルで,アクティブな活動をしている人がいるから紹介しようとのこと。
11:00にルマン駅,駅前にて早めの昼食。大学の食堂は昼混んでいてとても食べられないとのこと。ポルターブルの店にて3種類のサラダとコーヒー。マクドは絶対行かないのが,マリテの原則とのこと。
食事後,バスにて大学へ,13:00前に大学に着き,共同研究室にて時間をつぶす。マリテは書類の整理,僕は紹介されたDaniele OMERにスタンドコーヒーをおごってもらう。機械翻訳を専門とするという。ひっきりなしに電話がかかってくるが,丁寧に応対している様子がサンパ。
14:00からマリテのクラス。はじめにマリテから紹介され,次に15分ほど,僕の大学およびクラスの説明。その後,質疑。結構おもしろい質問が出て,やり取りも白熱する。やはり実習の部分に質問が殺到する。原稿のない話のほうが聞いているほうも質問しやすいようだ。LILLでは,やや盛り上がりに欠けたが,今度は割合うまくいった。フランス語のやり取りは大変だが,何とかこなせるようになりつつある。つづいて,マリテからアラブの少年のクラスでの回想を書いた記事が紹介され,そこでの文化的支配と少年のアイデンティティのゆれについて話し合う。まさに僕の日々の教室の中で繰り返されている議論が,ここでも展開される。
16:00からビデオを見るために教室をかわる。別の建物へ入り,休憩のスタンド・コーヒーを飲んでから,はじまる。まず上・中・初のそれぞれのビデオを5分ずつくらい見てから質疑応答。ここではやはり誤用訂正の問題が中心となる。直接訂正と間接訂正との違いなど,マリテがかなり丁寧に説明する。次に,マリテが第2言語学習者と母語話者の問答の例(フランス語と英語)をプリントしたものを示し,どのようにして学習者が問題を回避していくかが具体的に提示される。まさに対話によって,さまざまな問題が乗り越えられていくプロセスが明らかになっている。結局はクラスの目的が問題なのである。最後に,クラスのみんなに僕の話に付き合ってくれたことへの謝辞を述べ,解散。クラスの中で,後の資料とするために,録音を取っていた学生がいたので,テープを送ってもらうよう依頼。快く引き受けてくれる。日本に一度行ったことのある学生で,できればまた日本に行きたいという。車中話した交換プログラムが成立すれば候補になる学生だが,この学生は非常に積極的で優秀な学生であるためヨーロッパプログラムにも属しているとのことで,たぶん同時にはむずかしいだろうとのマリテの判断。むしろ一,2年待って,ドクタークラスの学生派遣を考えたほうがいいかもしれないとのこと。
帰り際に,共同研究室に寄り,セクション代表のMichel CANDELIERに会う。言語の目覚めというコンセプトによって年少者のフランス語教育に関してヨーロッパを股にかけた大変大きなプロジェクトを実施しているとのことで,政治的にもかなりの手腕があるという。バスに乗り遅れそうになったので,3人で走るが間に合わず,寒風のなか次のバスを待つ。ミッシェルは,小石アツコさんという横浜の人と知り合いだそうだ。小石さんという人は,言語政治学に関する本を準備中とか。駅で別れ際に,リールでの資料をミッシェルに手渡し,マリテとパリにもどる列車に乗る。ミッシェルは明日も仕事のため,ルマンに宿泊とか。
車中,クラスでのさまざまな議論についてマリテと話す。マリテからは,社会学と社会言語学との議論をもっと考えたほうがいいというコメントをもらった。ちょうどこの1月に亡くなったPierre BOURDIEU の Habitus という概念について考える。「シアンス・ユメンヌ」(人文科学)でブルデュ特集号をやっているから,見ておけばいいといってくれた。また,いろいろ話しているうちに,僕の持参した授業風景ビデオについてマリテは,ややモノローグ的な印象をもったという。そこで,モノローグ(独白)とディアローグ(対話)の違いとは何かという話になったが,そのとき,マリテが僕の話の中でしばしば3人称の人物が例に引かれて説明されるが,あれはたぶんにモノローグ的だという。なぜかというと,対話とは自己と他者の関係の中で成立するものであるから,当然のこととして,そこに登場するさまざまな問題は,自分かまたは相手の問題として語られなければならない。たとえば,問題のある学習者の問題を例にする場合でも,第三者として扱うと,それは何か決められた定義のように聞こえてしまう。だから,これは相手の問題として,語る必要があるのだという。それは,「君がこうしたとして,…そうすると,(君は)…のようになるよね」といった具合。この場合に必ず「君」を主語にしなければ対話になりにくいというのである。マリテは,これを日本社会のあり方との関係で考えるべきではないかというが,どうだろうか。今後の課題がひとつ増えた。
20:00にモンパルナスにつき,クレップ屋に行くこととなり,資料を基金の根来さんに渡すため,電話してクレップ屋まで来てもらう。
11:00頃参会。宿に帰ると,ラファエルがラジカセを取りに着てくれた。日記・原稿のあと,12:00過ぎ就寝。
3月20日(水)
曇り。
朝8:00モンパルナスよりエールフランスバスにて空港へ。渋滞のため,9:30ごろCDG到着。すぐに搭乗手続きののち,10:30ごろ,離陸。離陸までやや時間があったので,昨日マリテが教えてくれた「シアンス・ユメンヌ」(人文科学)のブルデュ特集号を売店にて買い,ざっと眼を通す。ベルリン・テーゲル空港行きの便は,ほぼ満席。アメリカ語を話す家族が隣で大騒ぎ。ついには老夫婦が孫のテレビゲームを持ち出して大声で熱中し始めたため,もしできれば席を替えてもらないかと添乗員に頼むも無理のよう。仕方なくずっと目を閉じている。12:00過ぎ,定刻よりやや遅れてテーゲル空港着。