八ヶ岳アカデメイア――出版・執筆活動:解説

「総合活動型日本語教育」とは何か――目的概念としての総合活動型日本語教育

細川 英雄

1. 言語文化教育は何をめざすか

まず言語文化教育は何をめざすのかについて考えてみよう。

言語文化教育とは,“言語活動による自文化・他文化の問い直しの教育である”と筆者は考える。

人は教室の中で,自己表現をめざし,他者との人間関係を構築すべく,さまざまな交渉を行う。そこで得られた関係をもとづきつつ,他者との関係の中で,ひとつの社会を形成する。これが言語活動の働きであり,その存在意義である。したがって,言語活動における「社会化」とは,すでに出来上がった「社会」への参入や適応を言うのではなく,他者との協働においてひとつの「社会」を形成すること,このことである。

このような意味において,母語のための言語文化教育は,母語活動による自文化・他文化の問い直しの教育であり,第二言語としての言語文化教育は,第二言語の活動による自文化・他文化の問い直しの教育であると確認することができる。

では,こうした考え方は,従来の言語教育とどのように異なるのか。

筆者は,言語教育とは本来,上に述べたような言語文化教育であるべきだと考えている。もちろん,上記の考え方に対して異論のある方も多いだろう。それはそれで当然のことである。価値観は一人一人違うし,それに伴った教育観,言語観もそれぞれ異なるはずである。

しかし,人間のあり方,また言語の活動のあり方から考えて,言語教育は言語文化教育であるべきだというのが筆者の考えなのである。ここから,より新しい言語教育に関する考え方についての議論ができるなら,これに勝るしあわせはない。

2. 固有性と共有性

言語文化教育の具現化した姿が,「総合活動型日本語教育」である。

ここで述べる「総合活動型日本語教育」(以下,「総合」)も,基本的には,第二言語の活動による自文化・他文化の問い直しの教育であるが,母語・第二言語を超えた言語教育の考え方ということもできる。

「総合」は,具体的には,受講者一人一人の「思考」と「表現」の往還関係の充実をめざすものである。それは言うまでもなく,言語活動の原理だからだ。このためにクラス活動として行うことは,他者と共有できる,固有性のある内容を持つレポートの作成という方法を採用している。

なぜ,そのようなレポート作成を目的とするのかといえば,自己表現にとって,最終的に問題となるのは,固有性だからだ。その固有性を求めることを最終目的とすることが教育活動としては重要であると考える。

ただ,その際に,その表現のプロセスや成果を他者と共有できることが不可欠である。相手に伝わらない固有性では,いわゆる独り善がりのエゴイズムに陥ってしまう。

そこで,他者に伝わるための共通性が必要となるだろう。その共通性とは,固有性が主として話者の思考内容と密接に関連しているのに対し,他者と共有すべき論理構造とでも言うべきものと規定することができようか。

では,共有する論理構造とは何か。

ここでは,言語表現として表れる,語・文・パラグラフ・章立てなどの論理を支える「構造」と考える。これを広い意味で,やや比喩的に「文法」と呼びたい。この場合の「文法」とは,話者の思考が表現化されるときに必要な「構造」であり,同じに他者との相互理解のための共有性を求める「構造」である。両者がその「構造」を共有することによってはじめて,話者の表現は,「伝わる」からである。

人の思考は,一人一人固有のものではあるけれど,その内容を他者に伝えるためには,共通する論理としての「構造」が必要になることは今述べたとおりである。表現されたものから,この「構造」を取り出し,説明しようとしたものが「文法論」である。「世界には60億の文法がある。」ということの意味は,内言としての思考の中にすでに何らかの「構造」は仕組まれているけれども,それは,かなり混沌としたもので,他者と共有できるようなものではなない。むしろ,その内言を他者に伝えるべく発揮されるのが,表現の論理としての「構造」ということになるが,その内実は,「文法論」として外側から説明されてものではなく,話者自らがインターアクションの調整によって次第に身につけるものであろう。

以上のように,個人一人一人がオリジナルな思考を持っていて,究極永遠にインターアクションを続けても,本当に理解しあえるかどうか保障の限りではないが,少なくともそのプロセスが大切で,そのことを通して,「思考」と「表現」がよりハッキリ見えてくるということである。

さらに,前に述べたように,この「構造」にはさまざまなレベルがある。

しかも,その「構造」は取り出してみることができない。たぶん,このようなものではないかと示すことはできるかもしれないが,それは取り出す人の解釈によるため,ほかの人には直ちに適用できるものではない。いわば人間を動かしている,何か見えないシステムがあり,そのシステムのものに立ち表れるものが「構造」であるということになろうか。したがって,この「構造」を共有するためには,お互いが手探りで確かめ合うしか方法がない。一回限りのやり取りでは不可能で,何度も何度も失敗を犯しつつ手探りで探り合うしかない。その結果,「伝わった」と両者が感じたとき,そこの合意が成立し,その表現が成立する。

「総合」における固有性のあるレポートをつくるという行為は,話者自らが見出した対象について,話者がその対象と自己との関係性を把握しようとすることからはじまるが,当初は,この関係性そのものが明確でない。そこで,それを他者に向けて伝えようとすることで,自己表現を図ろうとする。その際に重要なのが,他者との「構造」の共有である。他者との「構造」を共有することによって,自らの固有性を他者に伝え,それぞれの固有性の意味について考えることができる。これは,個別から普遍への意味でもある。