八ヶ岳アカデメイア――世界各地での実践・講演

日本語教育学会秋季大会パネルディスカッション
「ことばは教えられるか――日本語教育における教室実践を問い直す」

  • 2010年10月9日(土)神戸大学
  • パネリスト
    • 細川英雄(早稲田大学大学院)
    • 金龍男(早稲田大学)
    • 吉武正樹(福岡教育大学)
    • 牲川波都季(秋田大学)

会場からいただいたご意見・ご質問に対する返信と文献

※いただいたご質問の文面は,同一内容の複数のものをひとつにまとめるなど,一部こちらで編集してありますことご了承下さい。

コミュニケーション論について

コミュニケーションは,対人間のみのそれしか考えられないだろうか。
細川:いろいろなコミュニケーションがあると思います。
吉武:それは「対・猫」や「対・樹木」とのコミュニケーションのことを想定されているのでしょうか。その場合,コミュニケーションの定義次第だと思います。広い意味では,相手が猫でも樹木でもコミュニケーションできると言えます。少なくとも猫のミケと出会い自分の生きる意味が開けたとすれば,ミケとのコミュニケーションによって自己の意味が変容したと言えるでしょう。また,くよくよと悩んでいた時に大きな樹木と出会ったとき,そこから「どっしり構えよ」という「声」を聞いて涙が流れたということがあれば,そこには樹木と私のコミュニケーションがあったとも言えます。
「対人間」のコミュニケーションを考える場合,私たちはこうした自己の変容だけではなく,私と同じような自己意識を持った相手を想定しなければなりません。その相手は言語を使うし,確実に相手の「意図」を想定できます。しかもその「意図」はこちらから確実に読み取れるものではないので,予測をしなければなりません。相手もこちら側を予測しますし,次の一手は予測の予測・・・とずっと続いていくようなコミュニケーションです。相手の「意図」を想定し,それが実は不確実性であり,その連続が果てしなくつづいていくような双方向のコミュニケーションは人間的です。
言語教育に関する議論でしたので人間のコミュニケーションが主となりましたが,これらの間の断絶を強調しすぎる必要はなく,人間のコミュニケーションは猫や樹木とのコミュニケーションという不確実なコミュニケーションの上に成立している,というのが紀要のp.93での主張です。前者と後者の連続と断絶の両方を考えることは,人間のコミュニケーションをより深く理解することにつながると考えます。
ことばはコミュニケーションのためにあるのか。
細川:コミュニケーションというものをどう捉えるかによると思います。広い意味で,人間間のやり取りと考えれば,たしかにそのためにあるといえるでしょうね。
吉武:少しトリッキーな言い方になりますが,「のためにある」というのは「目的」の存在,つまりそこに向かうべき方向性を想定していることになります。しかし,私(吉武)が想定しているのは,コミュニケーションはあらゆる意味の生成過程なので,ことば自体がコミュニケーションによって成立し,ことばによってコミュニケーションが充実するという関係です。したがって,コミュニケーションが目的でことばはその手段というのは,そういう説明の仕方も可能ですがまだ一面的な理解で,実際のことばとコミュニケーションの関係はそれ以上のことを指します。
例えば,私たちがことばを獲得するのは子どものころから周囲の人とのコミュニケーションによってです(コミュニケーション→ことば)。そして,いったんことばを獲得してくると,そのことばという色眼鏡を通してどのようにでも区切っていいはずの世界に切れ目をいれることができます(ソシュールを参照)。そのことによって認識が可能になります(ことば→認識)。こういう特徴もすべてことばとコミュニケーションの関係に含まれるのです。
「近代的コミュニケーション・モード」と言うときの,「近代的」とはどんな意味か。
吉武:近代の捉え方は「何」の近代について語るのかによって,焦点の当て方が変わってきますが,「近代的コミュニケーション・モード」というときの「近代的」は共同体の在り方や共同体と自己との関係について語っています。前近代的な共同体では自己は共同体に埋没した形で存在し,共同体が課すルールに従うことが当たり前と考えられていました。しかし,社会の流動性が高まるとともに他の共同体の人々との交流の機会も増え,自分が当たり前だと思っていた共同体のルールはさまざまなルールがある中の一つのルールにすぎなかったということに気づきます。このような過程を通じて,共同体に埋め込まれていた自己は「自由」を意識するようになり,私と共同体の関係は一種の「契約」のようなものであると感じられるようになります。後者のような共同体と自己との関係において求められるコミュニケーションのことを「近代的コミュニケーション・モード」と呼びました。具体的には,共同体のルールが恣意的であることを知っている自己は自分と他者の間に断絶があることを知っており,したがって自己表現や説得的なコミュニケーションが求められることになります。そうすることによって,そこに共同体がコミュニケーションによって編まれます。前近代であったら共同体というベースがあってコミュニケーションがその共同体の維持のために営まれていたわけですが,このように近代ではそのようなベースが不安定なため,コミュニケーションによって再帰的に共同体が常に生み出されていかねばなりません。そのようなモードの違いを想定していました。
(ご感想)意味生成活動としてのコミュニケーションを中心にした「ことばを教えることの意味」をメッセージとして感じた。
吉武:そうです。コミュニケーションをキャッチボールモデルで捉え,あたかも電話という機械がどのように音声を電気信号に変え,拡張器によってそれを音声信号に変えるかといった機械のメカニズムを説明するようなコミュニケーション観では,あまりにもことばやコミュニケーションの理解が狭すぎると思っています。それは人間の営みの機械的な側面を描くことであり,人間の営みの生産的な面にまだ焦点が当たっていません。
意味生成活動としてのコミュニケーションに焦点を与えることは,自己,言語,社会,文化などあらゆることがコミュニケーションによって「意味」として与えられていることを強調します。ですから,ことばを使うことは自己,言語そのもの,社会,文化を再生産させたり変容させたりする行為であり,そのようなコミットメントとその責務について私たち言語教育に携わる者はもう少し敏感になるべきではないか,と思っています。特に機械的なコミュニケーション観が誤りであるというわけではありませんが,そうした見方では見えないことの方が実は大事ではないか,と思うのです。
(ご感想)p.93の最後の2段落に共感した。
細川:ありがとうございます。

さまざまな実践の中で

それぞれの教育観に基づくさまざまな実践は,学ぶ側の選択として共存すべきか。
細川:学ぶ側には学ぶ側の考え方があり,教育する側には教育する側の考え方があるでしょう。
牲川:学ぶ側の選択としては併存すべきですが,それを選択する教員は様々な実践がありうる中でなぜ自分はあえてそれを選ぶのかについて,自分なりの教育観を持っていることが必要かと思います。
「言いたいことを言う」という活動は,狭い意味でことばそのものの習得が目的化した,そんな場所では成り立たないのだろうか。
細川:その場所がきわめて強固に目的化している場合,「言いたいことを言う」という活動は起こりにくいと考えます。ところで,この質問の意図はどこにあるのでしょうか。
年少者教育において,(年少者教育を,発表された意味でさまざまな習得環境の只中にいる者として考えると)初期指導は必要か。日本の学校での英語教育と,ニューカマーらのとで,状況は違うにせよ。
細川:この初期指導というのは具体的にどのようなことをさしているのでしょうか。
「言いたいことが表現できる」と,この日本の現状のなかで,それで満足できるのだろうか。
細川:満足するかどうかは誰もわからないでしょうね。なぜ「言いたいことが表現できる」ことが必要なのかを考える必要があると思います。
吉武:個人レベルで言えば,満足できる人もいればできない人もいるでしょう。もう少し広く社会レベルで考えると,不十分だと思います。「言いたいことが表現できる」というのは言語活動で言うとスピーキング活動のみに焦点を当てていて,「聞く」・「読む」・「書く」ははずれます。「言いたいことを表現する」というのは「何を」「何のために」表現するのかという問題も含まれますので,例えば,相手にわが社の商品を買わせるために「言いたいことを表現する」ということも可能になるわけであり,そういう部分は言語の教育においては核心ではないでしょう。また,言語を技術として考えるのはいいのですが,言語を学んで自分がどのように「変容」するか,その言語を使ってどのように「社会」や「他者」に貢献できるかということも大切な部分でしょう。したがって,「言いたいことが表現できる」ということで言語教育の核心に触れる部分は,かなり狭いのではないかと思います。
表現することでしか,自分にとって問題のある環境は変えられませんので,「言いたいことが表現できる」ことは,自分が満足した日々を送るためのが十分条件ではなく,必要条件と考えます。

学習者ニーズをめぐって

教師の教育観もそれぞれなら,学習者の学習観もそれぞれだ。たとえばひたすら「ネイティブみたいになる」ことだけを目指して伸び悩む学習者がいれば,教師には何ができるか。
細川:何ができると考えますか。答えは教師一人ひとりによって異なると思いますが。
牲川:私の場合は,その学習者がなぜネイティブのようになりたいと思うに至ったのかを,考えてみることから始めたいと思います。
学習者がすでに確固とした目的意識(1級とか就職とか)を持つ場合,それ以外の言語観・教育観による実践は「きゅうくつ」で「おせっかい」になり得ないか。先生の導きによって心のあり方や考え方に影響を与えること(人間探求や表現観につながる学習がよい,など)を前提とする教育は,つらく幅がせまく感じそう。その場合は,学習者の期待に応えるべく,さっさと「スキル」を教える教育もあってよいのでは。
細川:教師がスキルを与えたいと思えばそれでいいのでは。問題はなぜスキルを与えるのかを教師が考えているかどうかなのでは?
牲川:教師が明確な言語教育観を持つことと,それを学習者の要望に反して押しつけることとは別のことだと思います。学習者の要望や既存の授業内容の踏襲といった枠内でさえ,教師の言語教育観は無自覚的・自覚的に反映されざるを得ないのではないでしょうか。
学習者の,その教室に参加した動機が,教育方針と異なる場合,どう救うのか。
細川:教育方針と学習方針が異なるのは当たり前でしょうね。異なる個人なのですから。むしろこの問題を教師がどのように考えるかではないでしょうか。
上記3つのご質問について
吉武:ポストモダンな現代において多様な価値観が存在するのはごもっともです。「ネイティブみたいになる」ことだけを目指して悩む学習者に対して教師ができることですが,徹底的に鍛えてあげればいいと思います。ただし,伸び悩みがコンプレックスにつながっているのであれば,言語がネイティブ並みにできないことを思い悩む必要はないということは教えてあげるべきだと思います。母語話者の言語能力と第二もしくは外国語として言語を学ぶときの言語能力には簡単には埋めることができない溝があるものなので,そのことに対してコンプレックスを抱く必要はありません。ただ,言語能力を高めたいという思いはとても大切な動機ですし,どのような動機であれ言語能力が高くなることは言語教育にとって喜ばしいことだと思います。そこは否定する必要はありません。
そのうえで「はずせない」ことは,外国語を学ぶことで「人間として」学習者がどのように変容(成長)するか,その変容はどのように他者のためになるのか,という視点を持つことだと思います。つまり,自己のためだけではなく他者のためになるということを考慮した言語教育,私的利益だけでなく公的利益を視野に入れた言語教育がまず先にあるべきではないか,ということです。
ただし,このことは教育する側がどのような立場にあるのかによって,どれだけ教育者に求められるかは変わります。例えば,私的なサービスとして教育の機会を提供しているところであれば,教師と学習者の関係は「サービス提供者と顧客」というビジネスモデルで語られることになります。この場合は,上記のような外国語教育は理想ではありますが,現実的には「ビジネス」として成立しないかもしれない。ですので,教師個人がどのくらいこのような理想を持ち,学習者に受容されるような仕方で語ることができるか,ということがポイントになります。一方,公教育のようにビジネスモデルが理念型でない場合(とは言っても教育がビジネスのタームで語られるのが現在の傾向なのですが),外国語教育をまずは公的な利益で捉え,その上に私的な利益を乗せていくような順番で考えることは一種の責務だと思います。もちろん,私的なサービスの場合もそのような視点をできるだけ入れていくことが望ましいというのが,今回のパネルの目指す方向だとは思います。
はたして学習者は文集を作りたくて受講したのか。文法を勉強して能力試験に合格して企業に就職するとき有利な結果を手に入れたくて受講している人は,このクラスでどう過ごしたのだろうか。
細川:では,学習者のニーズとやらにことごとく沿うクラスを作ればいいのではないでしょうか。そこにどのような意味があるかを教師が考えるか否かという問題のように思えます。
牲川:そうした結果を得るための勉強は教室外でもできると考え,そのための方法をアドバイスし,そしてこのクラスはこういう方針なのだということを説明して納得してもらうこともできます。その教員が何をなぜ教えるべきと考えるのかに従って,教育のあり方はいくらでも変わりうるのではないでしょうか。
学習者は表現観の習得を本当に必要としているのか。
細川:本当に必要としているか否かは誰にもわからないでしょうね。人の心はわからないのですから,そのとき,教師はどうするのでしょうか。
牲川:表現観の習得は,言語を表現する行為とともに行われるもので,こういう考えが正しいのだと教え込むものではありません。言語を表現する行為は言語を使い学ぶことと同義であり,言語を学びたいという学習者であれば,言語を表現する行為とともにある学びを不要とは思わないのではないでしょか。学習者に,思いがけない,別の新たな必要の可能性を伝えることも,教員の役割と考えます。

教育の大枠

社会・人間関係がなければ,言語学習は必要ないのか。
細川:ことばは何のためにあると考えますか。
英語教育なら,なるほど「日本対西洋」をモダニティの問題へと読み替えられるにせよ,たとえば日中語対比において狭義の国文化に着目せずに同様の議論ができるだろうか。
吉武:もちろん,狭義の国文化に着目してはならないとは思いません。むしろ,最初はそのように外国語との差異を捉えるのが通常だと思います。
その後必ずしもモダニティの問題へと読み変えなければならない,ということでもなく,特に日中語の場合はその文脈における問題系があると思います。私は中国語は学生時代に一学期間学んだ程度しか経験がないため,具体的にお答えすることはできませんが,もしかしたらそこに中華思想的な特徴と辺境としての日本の特徴という問題が見いだせるかもしれません。その場合,内田樹著『日本辺境論』(新潮新書)にあるような視点から自己や自文化のアイデンティティや他者との関係性について考えるきっかけになるでしょう(あくまでも想像ですが)。
したがって,対する言語の組み合わせによって課題として現前する問題は異なり,それらを単に文化差に縮減して還元するのではなく,もっと人間や他者関係における根源的な問題に踏み込む,というのが本パネルの方向性ではないか,と考えます。
介護・看護に関する日本語教育に「お手伝い」要素はなく,職業人として当然身につけるべき知識として,日本語を教育していると思う。他方,たとえば国際結婚した日本人夫が,妻の日本語習得を日本語教育に投げている場合は「お手伝い」だろう。そういう意味ではないのか。
細川:「当然身につけるべき」と考えるのは誰でしょうか。要するに,教育とは何かという問題です。
必ずしも日本語教育が能力育成を目指しているわけではないだろう。たとえばオーストラリアの日本語教育は能力育成ではなく,国際社会に貢献し,国際社会から恩恵を受ける,そんな国民育成をめざすもので,かつ日本語が国際語でないことを考えると,いわば教養教育の意味が強いだろう。
細川:そのオーストラリアの教養教育の中身はどのようなものでしょうか。それこそを考える必要があると思います。
教師自身が「能力の習得を効率的に」という教育パラダイムの中で育ってきたので,自分が「ことばの市民」となって教室に立つということが非常に難しい。(私も「教育」は本来教室で機械的に教えることではなく,学びあうことだと思っている。教師はモデルを示すことを求められがちだが,モデルとなるものはやりとりの中でも意味を持ち,ことば自体にも意味がなければならないと思う。もう一度自分の実践や言語観・教育観を考えてみたい。)
細川:ですから,教師自身の教育観の問い直しが必要だとぼくも考えています。
(ご感想)ことばは教えられるが,確かに表現するコンテンツを持つ人材育成は困難だ。これを言語教育を通じて行っていきたい。
細川:ご指摘のように,コンテンツを持つ人材の育成こそ重要だと思います。
(ご感想)今まで国語教育の同僚に「日本語教育とは何?」と聞かれ「日本語を効率よく学ぶための教授法」だと述べていました。「人材育成の場」であることが良くわかりました。
細川:「人材育成」に対して「スキル」が必要という立場もあります。それについてどのように考えますか。

言語観・教育観

教える者の言語観を押し付けることになるのは怖いことだ(よしんばそれが学習者の言語観教育観より優れたものであったとしても)。
牲川:学習者の言語観に沿った言語教育もまた,学習者の言語観に沿うのがよいという言語教育観を選びとって行われているものと考えます。自覚的に選び取るということを私自身は押し付けというより,明確な責任に基づいた教育だと思っています。
海外における日本語教育でも,政治的言語教育実践観・表現観による教育は良いとお考えか。
細川:海外とか国内とかという問題がはじめに来て,それから問題を立てるということに疑問を持っています。この点についてはいかがでしょうか。
牲川:日本語教育では,批判的言語教育は海外で行われている例が目立っています。また私自身は海外で表現観の育成を目指した日本語教育を行ったつもりです。むしろ周囲で使われていない,全く新たな第二言語を学び使う中でこそ,自分たちの言語による自分たちのコミュニティ形成の可能性を実感をもって知ることができると考えます。
教師が自分の言語観・教育観への責任をもつのはわかるが,では,学習者の「日本語」には責任を持たなくてもいいのか。言いたいことは言えても,日本語がぐちゃぐちゃだったらどうするのか。
牲川:ぐちゃぐちゃな「日本語」とは何か,それを定義するのは誰なのかを問題にするのが,私自身の言語観・教育観です。学習者が,言語を用いて自分の意思を他者に伝え,他者の意思も受け入れつつ自身の意思を実現できる力が,私自身が身につけてほしい言語能力ですので,そうした能力の習得に対し,私は責任を持ちたいと考えています。

実践の方法

媒介語・共通語

媒介語の使用はどの程度か。最初の教示は日本語か。ボランティアが通訳するのか。もし英語を使っているなら,英語ができない学習者がいるとついていけなくなるのではないか。
細川:たとえば,媒介語の使用は,本当に状況によります。重要なことは,その使用云々ではなく,「私はあなたのことが知りたい」という姿勢を示すことだと思います。
基礎的な言語スキル(文法,語彙など)なしでは,考えていることを表現・理解することは困難ではないのか(ゼロ初級から初中級レベルへの移行とその教育方法の関係を詳細に分析したい)。
細川:なぜ困難だと考えるのでしょうか。実際にあなたはどのような試みをされているのでしょうか。
初級での基本的な表現の習得や学習者とのコミュニケーションはどのようにしたのか。ひらがなを覚えたての学習者には,このような活動は非常に難しいと思うが・・・。特に共通語がない初心者グループの場合。
上記3つのご質問について
金:媒介語・共通語は特にありません。また、ボランティアが通訳をすることもありません。クラスに入ってくる留学生は必ずしも英語が堪能なわけではありません。また、担当教師が「日本語を教えるために」と普段から自身の英語力の向上にばかり時間と手間をかけるわけにもいかないと思います。
クラスでは初日からとにかく「辞書を持ってきてくること」を学生に伝え、各自の母語で日本語の意味が調べられるようにします。最初は身振り手振りの上、単語の羅列ばかりが連続するので、非常に時間もかかり、教師も学生も我慢を強いられますが、それでも2週間経たないうちにお互い慣れてきます(※5コマ/1週間)。徐々にとこのクラスで「先生がよく使うことば」や各学生が自分のストーリーを発表の際「どうしても必要なことば」がお互いに共有されます。初級クラスであっても、一旦相手が「何を言っているのか」がわかれば、自分の意見も言えるようになります。

クラスの目的

初級480人のゼロレベルのクラスで実践できますか。
細川:できるかできないかではなく,ことばによるコミュニケーションとはどのようなものだとお考えですか。そして,何のために私たちはコミュニケーションをするのでしょうか。日本語教育の現場で,そういうやり取りをしてみませんか。
クラス構成が,人数が多い場合や,国籍や目的・受講動機が画一な場合(たとえば,全員1級合格を強いられていて必修として受講させられている)において,こうした実践を実現するポイントは。
上記2つのご質問について
金:このクラスの実践において、人数や国籍は特に問題にならないと思いますが、いくら何でも480人のゼロレベルのクラスは不可能だと思います。しかしながら、480人の学生を一人の先生が1つの教室で担当するクラスとは「何をするためのクラス」でしょうか。
今回ご紹介のクラスでは既存の日本語クラスとはまったく異なるアプローチをしていますが、このやり方こそ「万能」で、どんなクラスでも適応できるという意味ではありませんでした。能力試験1級を目指すクラスなら、それに見合った勉強をするべきだと思います。また、学生も自分がしたい勉強をすればいいと思います。このクラスのスタイルが好きではない学生もいるので、クラスでは初日のオリエンテーションで、「教科書がない」「文法の勉強はしない」「たくさん話す」とポイントになるところをしっかりと確認し、学生が納得してから受講するようにしています。
実際、受講した学生たちに「どうしてこのクラスを選んだか」と聞くと、「教科書クラスが大嫌いだから」と答える学生が少なくありません。

作文・文法・語彙

作文の字数は。
作文の構成についての指導はあるのか。
文法や語彙はどう教えたのか。
上記3つのご質問について
金:作文の構成について特に指導はしていません。受講者はみんな大人で、高校以上の学歴なので、序論-本論-結論の構成といった文章の基本などをクラスでわざわざ教える必要はありませんでした。学生の作文をみんなで読み合っていると、読み手の学生から自然といろいろなコメントが出ますが、大概は教師自身も同じく考えていた基本的な指摘である場合が多いです。言いたいことを文章で書き表す時、基本になるところは何語で綴るにしろ変わらないからだと思います。
しかし、時には学生のコメントに教師が驚かされたり、逆に学生から何か学んだりすることもしばしばあります。それはクラスで話し合っていることが、正解がすでに決まっている「何か」ではなく、一人ひとりの「考えていること」だからです。また、その時クラスで扱う語彙もやはり先生が事前に準備して教えることは不可能です。

クラスの運営と教師の役割

教師の「質問」が非常に重要な役割をはたしているようだが,それらはあらかじめ用意されているのか,それともその場で考えるのか。
牲川:教師のことば一つひとつも,その人の言語教育観から生み出されるものと思います。
クラスの期間が短い場合,初級者同士でどこまでこうした話し合いができるのか。またその際の実践にコツはあるか。
上記2つのご質問について
金:このクラスの場合、あらかじめ用意できることはほとんどありません。クラスで学生がどんな話を始めるつもりでいるのか、またそこからどういう展開になるのかがわからないので、たとえ事前に準備したとしても無用な場合が多いです。その代わりに、授業後の振り返りは非常に長いです。「クラスでどんな話が交わされたのか」「学生たちはどれぐらい興味や意欲を持ってやり取りに臨んでいたのか」「いつも活発に話していた彼が、どうして今日は黙っていたのか」など、振り返りの素材もその都度、異なります。
教師の「質問」が重要な役割を果たしているように見えたのは、教師には「お互いのことをよくわかっていくために積極的に働きかける」といったはっきりした目的があったからだと思います。パネルでもご紹介しましたが、最初は教師が意識的に学生に質問します。それが、中盤ぐらいになると学生間でも「お互いのことをよくわかるための」質問が自然と始まります。
「クラスの期間が短い」といった場合、どれぐらい短い期間を指しているのかわかりませんが、長い期間なら成功できて、短い期間では無理だというふうには考えていません。また「どこまでこうした話し合いできるのか」も、実践者がどこまで目指しているのかによると思います。その時のコツもやはりそのクラスの実践者のみがつかめられるものだと思います。

教師・学習者間の理解

学習者と教師は同じ意味を見出しているか。たとえば「辞書的な意味でなく,自分にとっての意味を含むものとして再定義した」というとき,その再定義に学習者も意義をみいだしているだろうか。
金:学習者が「自分にとっての意味を含むものとして再定義した」ことに自ら意義をみいだしているのかどうかは、学習者に直接聞いてないのでわかりませんが、人それぞれなのではないかと思います。学習者はそもそも自分にとっての意義を見出すためにこのクラスに入ったわけではないと思うので、一概には言えません。また、クラスの実践者が注目している部分は、学習者が意義を見出したかどうかではなく、辞書のことばに過ぎなかった日本語を「自分の話をするためのことば」として自ら捉え直したかどうかです。
3つのテーマは出るべくして出る感があるが,参加者の話合いの中から出てきたことをもって了とするのか。
金:「お互いについてわかるためのテーマ」というとそこに家族やふるさとの話はつき物です。また、クラス構成メンバーの共通趣味や関心事もよくテーマになります。「どんなテーマがいいだろうか」という教師の振りに、学習者は自由に案を出し、突き合わせます。教師のすることは「このテーマで話せば、お互いのことがよくわかると思うのか」の確認だけです。

そのほか

初級でどうして自分のことをそんなに言えるようになっているのかがよくわからない。
細川:よくわからないと考える根拠は?
(ご感想)人間一人一人の個別の表現を教材化することは不可能なので,日本語ゼロの学習者に教師として(「となりの日本人」としてではなく)は,何をどう教えていいのか,非常に難しく考えさせられる。
細川:難しいと考える根拠は何でしょうか。それはどこに原因があるのでしょうか。
(ご感想)2002年,院生として早稲田で同じ趣旨のクラスに参加して刺激を受けたが,その時はレベル5で,中級以上でのみ可能との印象だったが,今回はゼロ初級での実践で,スゴイと思った。今度参加したい。
細川:早稲田での実践研究をあなたはどのように自分の実践に活かしていますか。むしろそれをうかがいたい。
(ご感想)教師の働きかけによって,クラスや学習者がかわっていくことがよくわかった。

総合活動型教育

日本語学校や地域など,大学以外の現場で,こうした方法にシフトしていくことができるだろうか。それを実現する際のポイントを知りたい。
細川:まずあなたがやってみようと思うことでしょう。すべてはそこから始まります。
金:今回パネルでの紹介者を含む4名の教師が現在,実践とその応用のためのハンドブックを執筆しているところです。一言で答えられないご質問なので,本の出版をお待ちいただけたらと思います。
学習者の考えていることを表出させるにろ,自分の考えやライフスタイルを開示することに抵抗感を感じる学習者もいるのではないか。
細川:誰でも一方的にそんなことを言われたら,そう感じますよね。この実践から,なぜあなたはそのように感じてしまうのでしょうね。
金:言いたくないこと、見せたくないことを開示するように強制されると抵抗感を持つと思いますが、誰もそういったことはしません。人間は誰しも相手との関係を考慮して発言します。親しくない関係では遠慮する話も親友が聞いてきたならしゃべっていいと思う場合があります。学習者もみんなクラスの中でのお互いの関係やクラスの雰囲気などを考えながら、慎重に発言していると思います。
教師は、クラス構成員間の関係作りだけでなく、同時に「いやなことはいつでもいやだと言える」クラス環境作りにも心がける必要があると思います。
牲川:考えていることを表現するといっても,どこまで表現するかを決めるのは学習者です。表現したくないことは全く表現する必要がないということを説明し,言いたくないことを言わせる場ではないという共通認識を作れば問題は起こらないかと思います。
事実の羅列から「なぜ?あなたが一番好きなのは?」と「考えること」を求めるアプローチだけでなく,同じく事実の羅列から「解釈・意見を述べよ」とする談話形式からのアプローチでも,個々の考えを表明できていると思うが,両者に根本的な違いはあるのか。コンテンツを持っていない者は持っていない者なりに,素の部分が出せればよいのではないかと。
細川:同じことだと思います。別にやり方に決まりがあるわけではありません。また,コンテンツを持っていない人間って存在するのでしょうか。
金:わたしは「解釈・意見を述べる」こともその人の「考えていること」だと思うので、両者に根本的な違いはないと思います。実際に学生の「考えていること」を聞くとき、質問は一通りだけではありません。
「過去・現在・未来をつなぐテーマ」は不変のものか,変化し続けるものか。もし変化するものなら,パワーポイントにあった情報と表現の循環図のなかに「創造」「選択」といったものが加わるのではないか(教育のモデルとして考えるなら,配慮すべき点だ)。
細川:そうですね,当然のこととして,テーマは変化しますし,そこには,「創造」や「選択」という要素もあると思います。ありがとうございます。
自他の違いを認めまた受け入れるには,まず他者を知りたいという感心をもつことが重要。だが,そんな感心をもつというプロセスが,なぜ教室で実現できるのかを知りたい。人間観の形成ということと関連しているようだが。
細川:むしろなぜ教室で実現できないのかをうかがいたいと思います。教育とは何かという問題にも関わると思いますが。
金:まずは教師が一人ひとりに関心があるかどうか、なのではないでしょうか。日本語クラスに集まっただけで、自然と「相手への関心」がわいてくることはないと思います。まずは教師自身が関心を持って一人ひとりに接していき、それがクラス全体にじわじわと広がっていくものだと思います。
牲川:教師自身が一人ひとりの学生を知りたいと思うことから始まるのではないでしょうか。

測定・効率

「効率よく・効果的に教えること」は必要であって,否定できないだろう。その手段については,さらなる研究が必要であるにせよ。
細川:なぜ必要だと考えるのでしょうか。あなたは本当にご自身でそう考えているのですか。
牲川:何を教えるのかが問題だと思います。
この教育モデルも,結果的には,目的に沿った教え方として効率的であろう。その意味で,やはり効率よく教えることを求めるべきという命題は否定できない。
細川:なぜ効率が絶対の命題なのでしょうか。「考えるための日本語」が効率的であるかどうかは,設計者としては関係がありません。
牲川:教育目的を達成するために授業設計を行うことを,効率を求めていることと同義と考えれば,今回の提案も効率的ということになるのかもしれません。効率的かどうかよりも,何を教育目的として設定するのかを重視しています。
上記2つのご質問について
吉武:「効率」という場合,一つは教え方が効率であるべきということと,二つ目は言語教育においてコミュニケーションの効率性を目指す,という二つの問題が含まれます。これら二つのコメントは前者の教え方の効率性のことを話されており,もちろん効率的な教え方があればそれは否定されるどころかよいことではないかと思います。ただし,好まれる学習スタイルは人によって異なりますので,ある人には効果的な学習方法が他の人には非効率であるということはよくある話ですが。
もし私の理解が間違っていたらすみませんが,今回のパネルにより関係することは,むしろ二つ目の問題ではなかったかと思います。つまり,教育の手段の効率性ではなく,教育の目的がコミュニケーションの効率性に動機づけられていることをどう考えるか,ということです。言語を教えることで効率的に他者とコミュニケーションできること,そのための技術を磨くこと,人によっては効率的にホスト文化に「適応」できること,こうしたことがこれまでの言語教育の主とした関心事でした。こういう目的がリアリティを持つことはわかりますし,そういう側面はあると思います。
しかし,コミュニケーションが効率的であることは,必ずしも学習者,または彼(女)らが展開するコミュニケーションが「よりよいものになる」ということを保障しません。コミュニケーションが効率的でなければならない場合,志向されている「目的」を反省的に捉える必要があるからです。極端な例ですが,ナチスによるユダヤ人虐殺はある意味,ユダヤ人という他者を排除することによってドイツ国内のコミュニケーションをより「効率的」にするプロジェクトであったとも言えます。効率になったコミュニケーションで「何をなすのか」。今回のパネルにおいては,こちらの方の「効率性」の方がより重要だったと思います。
力1がなくても力2がある人がいる,とか,力1が完璧でなくても力2をいくらか持っている人が力1だけを完璧にした人に勝る,とかいう事実では,まず力1を教えてから力2を教えたほうが効率的ではないか,の答えにはならないのではないか。
細川:ご質問の意味がよくわかりません。効率の話はまったくしていないのですから。
個人の能力は全体的に測ることができないにしろ,「こんな能力が足りない,ある」といった部分的な能力については,それらを測ることが必要ではないか。
細川:なぜ能力を測ることが必要なのでしょうか。
(ご感想)確かに,テストや教室での日本語はまだまだのレベルなのに,教室外では日本語でかなりのやりとりをしているのを現実に見る。
細川:ですから,そこから教師自身は何を考えるかだと思います。

日本語教育の役割

考えのやりとり,人間関係・社会の構築,それらのための「ことば」とすれば,日本語教師の専門性とは何になるのだろうか。
細川:重要なのは,従来自明とされてきた「日本語教師の専門性」を疑うことではないかと思います。教育とは何かという問題にも関わるのですが。
牲川:私の場合は,表現観の教育を,日本語教育という場で行っているということになり,ことばの教育の専門家であると自分を位置付けたいと思っています。日本語教育の専門家として自己規定するかどうかは,それぞれが考えればいいことではないでしょうか。
わざわざ外国語教育でこんなことをやらなくてもよいのではないか。(既存の方法で具体的な問題がでているなら,根本的に教育目標を変えてしまうこのような提案もわかるが,そうでないなら,なぜそんな問題のない日本語教育で,これをせねばならないのかがよくわからない)
細川:現在の外国語教育万歳という立場なら,それでいいでしょう。でも,それはおそらく根本的な問題が見えていない,あるいは見ようとしていないということでしょうね。
牲川:新たにことばを学ぶ時にこそ,ことばを使うことやことばで他者とつながることの可能性を再認識する絶好の機会と考えますので,あえて外国語教育でこのようなことをする意義はあると思います。
(ご感想)大学内で,日本語教育の位置づけを伝えていくことを試みたい,と思った。
細川:具体的な発信がありましたら,ぜひお知らせください。

表現観

1級取得という目標達成そのものが,学習の希望になっている場合もあるのではないか。
細川:学習者のニーズとは何かという問題ですね。むしろご自身は,そのことをどのようにお考えですか。
表現観を育むには,学習者の賛同が必要だし,学習者を限定してしまうのではないか。
細川:誰にでも同じように,みんなが賛同する方法のようなものが存在すると思いますか。
牲川:ことばを使う教室であればどんな環境下であれ表現観を育むことはできると考えます。必ずしも,金龍男さんが発表なさったような形だけでなくさまざまな形があり得ます。今までの日本語教育こそ,別の選択肢を示してこなかったという点で,学習者を限定してしまってきたのかもしれません。
表現観を育てるというけれど,それを必要としているのは一体誰なのか。
牲川:学習者は必要としていないのではないかというご質問かと思いますが,こういう学びの対象もありうるということが示されなければ必要は生まれてこないものと思います。表現観の教育がなぜ重要なのかについて説明した上で,学習者自身もまたそれを重要と思えばそこに学びの必要が生まれてくることと思いますので,表現観の教育の意義について私自身ももっと言語化していきたいと思います。
学習者が日本社会で日本語を使って生きていけるよう支援する,このことと,表現観を育む,この関係をもう少し聞きたい。
細川:また別のところでお話しする機会もあると思います。参考文献等をホームページに掲載していますので,よろしく。
牲川:どの社会であっても,自分の意思を表現してみるということが,自分が納得しながら生活していくための一歩ではないでしょうか。自分は表現できるのだ,表現することには意味があるのだと考えられないと,その一歩も始めることは難しいのではないかと思います。

評価

現実の教育機関における,いわゆる「評価」を,この場合どう行うのか。
細川:参考文献の『考えるための日本語』(2006)その他をご覧ください。
「テスト」という弊害が厳然としてある。能力観・測定観について社会的な認識の変容が必要なのではないか。
細川:その通りだと思います。ですから,現実を追従する教師であってはならないのだと僕は思います。
上記二つの質問について
金:今回パネルでの紹介者を含む4名の教師が現在,実践とその応用のためのハンドブックを執筆しているところです。一言で答えられないご質問なので,本の出版をお待ちいただけたらと思います。
コミュニケーション能力の評価は確かに困難だ(たとえば,「わからないけど適当にたくさん英語をしゃべっていたら通知表が5だった」という生徒もいる)。単に「積極的に他者とかかわろうとするか」という規準ではあいまいすぎるのではないか。
細川:規準というのは誰が作るのでしょうか。これをどのようにお考えですか。

企画意図

4名で論点の強弱こそあれ,一聴する限りでは,戦前アメリカ進歩主義教育をはじめとするロマン主義的志向と,言ってることは変わらないじゃないか,との印象がありましたが,その実,あまりそういう方面は意識してなくて,むしろ教育のめざすべき思想的方向性への興味そのものを高揚させたい,そういう意図の発表だったのでしょうか。つまり「ことばを教えられるかどうか」というより,それを考えるとまったく違うことまで考えることになりますよ,楽しいですよ,みたいな発表だったのかと。
細川:このパネルを企画した当初は,日本語教育界のあまりに陳腐で形式主義的かつ現実べったりの状況に対して,やはり何か言わなければならないのではないかというあたりが発端でした。しかし,メンバーでやり取りしているうちに,「ことばが教えられるか」どうかは,はっきりいってどうでもいい問題であることに気づきました。おっしゃるように,とにかく一人の人間としていろいろなことを考えてみようよ,そうすると,今までとは違う世界が開けてくるはずだ,とにかく「考えない日本語教師」というおろかな集団を形成するのはやめよう,というメッセージになりました。それは,当日の質疑応答およびこの質問メモとそのコメントを見ていただければ伝わってくるのではないかと思います。

参考文献

細川

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  • 森元桂子,金龍男,武一美,坂田麗子(2009).学習者が主体的に参加するとき――総合活動型日本語教育の初級クラスの実践から『言語文化教育研究』8(2).http://www.gsjal.jp/hosokawa/gbkk08.html#v2

吉武

  • 板場良久(2010).新しいコミュニケーション能力.池田理知子(編)『よくわかる異文化コミュニケーション』ミネルヴァ書房.
  • 齋藤孝(2003).『からだを揺さぶる英語入門』角川書店.
  • 齋藤孝,斎藤兆史(2009).『日本語力と英語力』中央公論新社.
  • 津田幸男(2006).『英語支配とことばの平等――英語が世界標準語でいいのか』慶応義塾大学出版会.
  • 松本茂,師岡淳也,臼井直人,吉武正樹(2008).レトリック研究とコミュニケーション教育の接点を探る『スピーチ・コミュニケーション教育』21,5-40.
  • 文部科学省(2003).『「英語が使える日本人」の育成のための行動計画』.
  • 吉武正樹(2009a).媒介言語としての英語.木村護郎クリストフ,ほか(編)『媒介言語論を学ぶ人のために』世界思想社.
  • 吉武正樹(2009b).教員養成系大学におけるコミュニケーション教育はどうあるべきか『スピーチ・コミュニケーション教育』22,21-30.
  • Kachru, B. B. (1992). The other toungue: English across cultures. University of Illinois Press.
  • McKay, S. L. (2002). Teaching English as an international language. Oxford University Press.

牲川

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  • 熊谷由理(2009).日本語教室でのクリティカル・リテラシーの実践へ向けて.リテラシーズ研究会(編)『リテラシーズ ─ ことば・文化・社会の日本語教育へ 4』(pp. 71-85)くろしお出版.http://literacies.9640.jp/web04-06.html#web08
  • 塩川春彦(2000).Content-Based Approach(コンテント・アプローチ).田崎清忠(編)『現代英語教授法総覧』(pp. 296-304)大修館書店.
  • 牲川波都季,細川英雄(2004).『わたしを語ることばを求めて ─ 表現することへの希望』三省堂.
  • 牲川波都季(2009a).日本語コミュニティを創り出す ─ アメリカ高等教育機関での日本語教育実践より『国際研究集会2009外国語教育の文脈化:『ヨーロッパ言語共通参照枠』+複言語主義・複文化主義+ICTとポートフォリオを用いた自律学習プログラム』64.
  • 牲川波都季(2009b).「日本文化」がないと海外日本語学習者は動機付けられないのか.田中里奈,山本冴里,牲川波都季『パネル:日本文化を教えない海外日本語教育という選択 ─ フランス・韓国・アメリカにおける高等教育機関での実践事例から』2009年度豪州日本研究大会 ─ 日本語教育国際研究大会JSAA-ICJLE2009 Papers_Final_090722』(pp. 332-333).
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  • 宮崎里司(2002).外国人力士の日本語習得 ─ 言語管理と自然習得『早稲田大学日本語研究教育センター紀要』15,119-131.http://hdl.handle.net/2065/2800
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  • 吉村雅仁,吉田伶子,辻田理恵(2007).総合的な学習の時間における言語意識教育の試み『奈良教育大学紀要』56(1),175-182.http://hdl.handle.net/10105/649
  • Fairclough, N. (2001). Language and power (2nd ed). London: Longman.(貫井孝典(監),吉村昭一,脇田博文,水野真木子(訳)『言語とパワー』大阪教育図書株式会社.)
  • Hawkins, E. (1984). Awareness of language: An introduction. Cambridge: Cambridge University Press.

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